第3話:消えた息子と父の取引
1か月後、息子・村上秋斗の入試結果が発表された。
彼は奇跡的に普通高校の合格ラインを超え、家族に誇りをもたらした。
私は「何かご褒美が欲しいか」と聞いた。彼は「子供の頃のように、ショッピングモールのエアー遊具で遊びたい」と答えた。
私は渋々ながらも、彼を連れて行った。
だが、タバコを買いに外へ出た隙に、息子は姿を消した。
モール中を探し回ったが、どこにもいなかった。
その日はスマホを持っていたが、何度LINEを送っても既読にならなかった。
妻の美咲にも電話したが、「家にいないの?あなたが連れて行ったんでしょ?」と困惑していた。
胸騒ぎがした。
この仕事をしていて一番恐ろしいのは、敵が家族を狙うことだ。
私は30年近く警察官をしてきて、殺人犯、誘拐犯、性犯罪者、臓器売買人…数え切れない悪党を逮捕してきた。
彼らの凶悪な顔が脳裏に次々と浮かぶ。
全身が冷たくなった。
すぐに後輩の田中国広に連絡し、チームを呼んだ。
警官たちは手分けして捜索し、私は田中国広と一緒に監視カメラの映像を確認した。
画面には、エアー遊具の裏でこっそり動く人影が映っていた。
その裏手にはモールの裏口があり、少し離れた路地で秋斗の壊れたキーホルダーと、バラバラになったスマホ、そして争った跡のある足場用の鉄パイプが見つかった。
鉄パイプは鑑識に回し、指紋を調べた。
多くの指紋が付いていたが、すぐに佐伯振世のものと判明した。
私は佐伯振世をよく覚えている。
4年前、強制わいせつ罪で逮捕し、私が担当刑事だった。
出所後は隣町で足場資材のレンタル業をしていた。
彼の息子が、1か月前に飛び降りた佐伯守人――秋斗の同級生だった。
間違いなく、第一容疑者だった。
すぐに佐伯振世を連行した。
彼は覚悟を決めていたのか、素直に警察署に来た。
本来なら、事件の関係者として私は捜査から外れるべきだった。
だが、それどころではなかった。
私は持てる尋問テクニックを総動員したが、佐伯振世は一言も口を割らなかった。
12時間の拘留期限まで、残り30分。
刑事訴訟法では、正式な容疑がなければ12時間を超えて拘束できない。
30分後には釈放せざるを得なかった。
私は突然立ち上がり、監視カメラを切り、田中国広に「外に出ろ」と言った。
彼は心配して拒否した。
私は怒鳴った。「今すぐ出ろ!」
それでも動かなかった。
その時、ついに佐伯振世が口を開いた。低く落ち着いた声で「田中くん、君は出てくれ。私は村上警部と二人きりで話したい」と言った。
部屋には私と佐伯振世だけが残った。
警察署の取調室には、古い蛍光灯のちらつきと、タバコの匂い、机の上には乱雑に積まれた書類。二人の間に、重い沈黙が落ちた。振世はゆっくりと煙を吐き、村上の目を真っ直ぐに見返した。
「村上警部、久しぶりだな」
「佐伯振世、何が目的だ?息子はどこだ?」
「村上警部、君は息子を大事にしている。でも、私の息子はどうだ?佐伯守人の死因を本当に突き止めたのか?」
「佐伯振世、言ったはずだ。佐伯守人はうつ病による自殺だ。病院の診断も薬の記録もある。偽造だとでも?」
「たとえうつ病でも、なぜ入試の最中に死なければならなかった?」
私は言葉に詰まった。
沈黙する私を見て、佐伯振世は一言一言区切って言った。「君の息子、本当に高校合格ラインを超えられたと思うか?」
胸が締め付けられるようだった。「どういう意味だ?」
彼は冷たい表情で言った。「君にも息子がいるから分かるだろう。自分の子が目の前で死ぬのを見届ける気持ちが。なぜ、入試に何のプレッシャーもない少年が、最後の瞬間に死を選んだか、不思議に思わなかったのか?誰かがその死の代償を払うべきじゃないか?」
当時、私たちもいじめや未成年犯罪の可能性を考えた。
だが被害者は死亡し、親も訴えなかった。面倒を避けたかったのだ。
だが佐伯振世は、我々の捜査結果を決して受け入れず、自分で真相を追い求めていた。
そして、彼が裁こうと選んだのは、私の息子だった。
残り25分。
佐伯振世は冷静そのものだった。
全て計画通りなのは明らかだった。
私は深呼吸し、セブンスターを取り出して火をつけ、ニコチンで気を落ち着かせた。
「一本いるか?」と聞いた。
彼は手を差し出した。
私は火をつけて渡し、「試験の話をしよう」と言った。
守人の自殺後、私は遺品を整理していて遺書を見つけた。
そこにはこう書かれていた:
『お父さん、僕は死にたくない。
でも、もう選択肢がない。
僕たちは、世界からはみ出した人間だ。
あなたは聖徳太子や吉田松陰、ソクラテスの話をしてくれた。
それで自分に忠実に生きろ、人の評価を気にするなと励ましてくれた。
でも——
聖徳太子は若くして亡くなった。
吉田松陰は斬首された。
ソクラテスは牢で毒をあおった。
お父さん、あなたは間違ってた。
僕たちは聖人じゃない。患者なんだ。
僕たちはアスペルガー症候群の患者なんだ。
あなたはカウンセリングを受けていないから知らないだろうけど、これは自閉症の一種だ。
僕たちは自分だけの世界に生きている。
カウンセラーの関先生が教えてくれて、僕は理解した。
僕は変わろうと決意し、みんなに合わせようとした。
彼らは受け入れるふりをして、僕をカンニングの道具にした。
でもバレたら、彼らは自分の将来なんかどうでもよくて、僕だけが終わる。
僕は拒否した。
そしたらいじめが始まった。
食堂で、席に座る前にとうもろこしの芯に針を仕込まれて、座った瞬間に激痛で叫びそうになったけど、静かにしろと言われた。
僕が恥ずかしがり屋だと知ってて、女子トイレに押し込んで、変態呼ばわりされた。
同級生が警察官の父親から手錠を盗み、僕を豚小屋に一晩中つないだ。
…
その後、彼らは僕の秘密を知り、それをネタに脅してきた。カンニングを手伝わなければ、秘密をばらすと。
仕方なく承諾した。
彼らが一番苦手なのは数学。
だから、僕がカンニングを手伝ったのも数学だった。
でも、入試の厳重な監督のもとで、どうやってカンニングする?
混乱がなければ無理だ。
一番の混乱は、誰かが飛び降りること。
監督が騒然とする中で、答えを回す。
この秘密は僕にとって全てで、命をかけてでも守りたい。
それに、もう生きていたくない。
入試を僕の最後の舞台にしたい。
最高の成績を出して、みんなの称賛と驚きの中でこの世を去りたい。
花火のように、一番輝く瞬間に消えたい。
お父さん、あなたは一度刑務所に入った。もう馬鹿なことはしないで。
誰がやったか、秘密が何かは気にしないで。
数学の最後に数列を残した。
その中に、僕が一番伝えたいことがある。』
私は呆然とした。
この世界のどこにも、僕の居場所はなかった。誰も僕を理解できない。僕自身ですら。
手錠は秋斗が遊びで持ち出し、後で洗って返したが、豚の臭いが残っていた。
そのことで私は彼を叱った。
まさかあのガキが、私の手錠で佐伯守人を豚小屋に繋いでいたとは。
入試前、秋斗は「試験の天才・佐伯守人の後ろの席だから、今度こそ合格ラインを超えられる」と言っていた。
私は既に息子の成績に期待していなかったので、気に留めなかった。
まさか、カンニングで合格したとは。
いや、まだ何か腑に落ちない。
私は田中国広に電話し、すぐに佐伯守人の検死報告書を持ってこさせた。
私はその場で一字一句読み上げ、法医の署名と印を確認した。
報告書を佐伯振世に投げつけ、「嘘をつくな!佐伯守人の遺体は徹底的に検査した。転落による骨折と内臓損傷以外、古傷はなかった!」と叫んだ。
彼はタバコを吸い終え、吸い殻を吐き捨て、挑発的に私を見た。「いじめの証拠は、いつも残ると思うか?」
私はもう我慢できず、ベルトから手錠を抜き、強く握りしめて警告した。「佐伯振世、もう一度聞く。秋斗はどこだ。黙っていれば、取り返しがつかなくなるぞ。」
そう言いながら、手錠を握った拳を彼の顔に振り上げた。
あいつはまだ私を嘲笑った。「正義感の強い村上警部が、ついに暴力に走るのか?男なら殴れ。できないなら臆病者だ。だから息子が弱い者いじめするんだろう。」
私は我を忘れて、左頬に思い切り拳を叩き込んだ。
警察の手錠はステンレス製だ。7〜8割の力で殴ったので、頬が割れ、筋肉が見え、血が流れた。彼はその血を舐めた。
私は再度脅した。「佐伯振世、話すのか?話さなければ地獄を見せてやる。」
彼は血だらけの歯をむき出しにして笑った。「村上警部、息子の行方の鍵はあの数列にある。解けなければ、取引しよう。」
「取引?」
「証拠とヒントの交換だ。」
ついに本音を明かした。
「どんな証拠が欲しい?」
「2000年3月25日と27日に王町署長が私を取り調べた時の音声と映像記録だ。」
それまで私は、息子を誘拐された憎しみはあっても、佐伯振世に同情していた。
自分の子が死に追い込まれたなら、私も復讐を考えたかもしれない。
だが今、私は佐伯振世が想像以上の卑劣漢だと悟った。
「息子の死を使って、強制わいせつ罪を覆そうってのか?」
私はそんな父親を理解できなかった。
彼は鬼のような目でにらみつけた。「そうだ。あの時、お前らは自白だけで俺を有罪にした。拷問の証拠があれば、自白は無効だ。証拠がなければ、証拠の連鎖が切れて俺は無罪だ。」
私は、いつも抜け目ない佐伯振世を馬鹿を見るように見つめた。「監視下で拷問する警官がいると思うのか?」
彼はニヤリと笑った。「村上警部、本当にしてないと言い切れるか?」
この野郎、私を何だと思っているんだ。
私はきっぱり言った。「していない。」
「いいだろう。誠意を見せるために、最初のヒントはもう渡した。君は冷静さを失い、ちゃんと聞き、考えなかった。自分が私ならどうするか、考えてみろ。」
私は落ち着き、手錠を見つめ、ふと気付いた。
「豚小屋か?」
佐伯振世は時計を見て、私を嘲った。「村上警部、12時間経った。もう俺を釈放すべきだろう。」
私は無視して田中国広に連絡し、市内唯一の養豚場へ急行した。
農場は広大で、地元警察にも応援を頼み、徹底的に捜索した。
一番奥の豚小屋で、秋斗の腕時計と、排泄物と思われるもの、そして暗赤色の血痕が見つかった。
すぐに鑑識班にサンプル採取を指示した。
現場の状況から、秋斗はここにしばらく監禁されていたことが分かった。
だが、彼はどこへ行ったのか?
何が起きたのか?
急いで署に戻ると、既に佐伯振世は釈放されていた。
「誰が釈放したんだ!」と叫ぶと、
副署長で刑事課長の王鎮が無表情で答えた。「私だ。12時間経過したから、法に従い釈放した。」
私は怒りを抑え、「だが秋斗は豚小屋にいなかった。移動させたに違いない」と言った。
王鎮は「佐伯振世がやったという直接証拠は?」と返した。
「鉄パイプに彼の指紋があっただろう?」
「彼だけの指紋か?」
もちろん違う。
足場用のパイプは誰でも触る、指紋だらけだ。
王鎮の意図は明白だった。複数の指紋が付いたパイプだけでは、法的に佐伯振世の犯行を証明できない。
私は焦りで立っていられないほどだった。「佐伯振世は秋斗が豚小屋にいると教え、実際に腕時計が見つかった。彼は確実に知っている。極めて疑わしい。検察に逮捕状を申請すべきだ。」
だが王鎮は動じなかった。「証拠は?君は監視を切った。君の証言だけで検察が逮捕状を出すと思うか?佐伯振世は情報を与えた事実を否定できる。」
私は氷水に突き落とされたような気分だった。
全ては佐伯振世の計画通り。
彼は私を追い詰め、規則違反をさせ、監視を切った後でヒントを与えた。
一歩一歩、私を法の外へと誘導していたのだ。
王鎮はさらに追い打ちをかけた。「尋問室を出た後、佐伯振世はすぐに君に暴行されたと訴え、診断書を要求し、上層部に苦情を申し立てると脅した。伊藤に付き添わせ、病院にも電話して報告書は慎重にと伝えておいた。村上、お前は今回、大変なことになったぞ。」
このとき、窓の外では春の雨が細く降り始めていた。警察署の廊下には、靴音と無線のノイズがこだましていた。私の心臓はまるで、遠くの救急車のサイレンのように、絶え間なく高鳴り続けていた。
私は、春の雨の音を聞きながら、すべてを失う予感に震えていた。