Chapter 2: 第2話:白髪になった夫の慟哭
父は投獄される前から予感していたのだろう。私の命を守るため、私を嫁がせることを決めた。以後、私は壬生家の娘ではなくなり、家が没落しても難を逃れられるようにと。父なりの最後の盾だった。
彼は心を砕いて私を守ろうとしたが、家が滅び、一人ぼっちになった私が生きていけるとは考えなかったのか。守られた先の孤独までは、想像できなかったのだ。
ネコイラズはすぐに効いた。しばらく苦しみ、壁際で体を丸め、口と鼻から血がにじみ、爪で畳を掴んだ。視界が薄暗く滲み、音が遠のいていく。痛みは鋭く、しかしどこか現実味が薄れていた。
千代が戻ったとき、私はもう事切れていた。室内の空気は凍りつき、炭火だけが微かに赤かった。
彼女が怖がらなければいいけれど。あの子の足がすくむ様子を想像し、胸が締め付けられた。
そんなことを思いながら、ふと自分が宙に浮いているのに気づいた。千代が泣き叫び、慌てて私を背負い医者を呼びに走るのが見えた。彼女の小さな背に、私の軽くなった身体が揺れた。
もう遅い。ネコイラズを飲んだら、ほとんど助からない。駆けつけた医者も、ただ首を振るしかなかった。帝都の名医でも、時間だけは戻せないのだ。
その夜、私は完全に息絶えた。冬の夜は長く、静かすぎた。
千代は電報で北方に知らせ、四日目には柊征二が帰ってきた。慌ただしい電信局の窓口で、彼女は震える手で電文を打ったという。
北の守備隊から帝都までは通常なら十日以上かかる道のりだが、彼は昼夜を問わず馬を乗り継いで最寄りの駅へ駆け、夜行列車を乗り継いで三日で戻ってきた。雪明かりの街道を、凍える風を切って。
目は血走り、やつれきった顔で馬を降り、まっすぐ私の元へ走ってきた。靴音が廊下に響き、彼の息が荒い。
その時、まだ棺はできておらず、遺体は小さな寝台に安置されていた。寒さのおかげで腐敗はしていなかった。薄い白布の下で、私は静かに眠っているように見えた。
柊征二は私を抱きしめ、全身を震わせて嗚咽した。肩に落ちる涙が、私の髪を湿らせる気がした。
「小夜子、なぜこんなことを……」
額の青筋が浮き、しばらくして血を吐いた。堪えきれない痛みが、身体から溢れ出たのだろう。
私は困惑した。幽かな自分の気配が、部屋に絡みつく。
柊征二、私はあなたにあんなに冷たくしたのに、なぜそんなに悲しむの?
私が死ねば、あなたは罪人の婿ではなくなり、出世の道が開ける。むしろ喜ぶべきじゃないの?
でも、柊征二には私の声は届かない。彼はただ私を抱きしめ、決して手放そうとしなかった。白い指が、必死に私を繋ぎ止めていた。
千代は傍らで泣き腫らし、「全部私のせいだ」と言い、柊征二に体を大事にするよう慰めた。声は震え、言葉にならない悲しみがこぼれた。
柊征二は聞こえないかのように、私を抱き続け、惨めな姿で夜明けまで座り込んだ。冬の夜が明ける頃、彼の背はさらに細く見えた。
千代が再び様子を見に来たとき、彼の髪はすっかり白くなっていた。たった一夜で、黒は霜に覆われたように褪せていた。
私は一晩中見ていたが、なぜ彼がこれほどまでに悲しむのか、どうしても分からなかった。私の冷たさは、彼の愛を試し続けていたのだろうか。
かつて父が私を嫁がせようとした時、帝都で私を引き受ける者は誰もいなかった。幼なじみの久我樹でさえ、私を避けて遠ざかった。背中を向けられる痛みは、骨より深く刺さる。
絶望していた時、柊征二が求婚に現れた。
彼は高等文官試験の首席合格者で、才気あふれ人柄も高潔、容姿も美しい。私がまだ幼い頃、茶会で「政府高官が娘を嫁がせたがったのに断ったらしい」と噂されていたのを思い出す。そんな彼が、私のような厄介者を娶ると言い出し、千代たちも「帝都中が驚いたって話よ」と顔を見合わせていた。
なぜかと問われると、「帝都に来た折、父上に水をもらって渇きを癒した。その恩を返すため」と答えた。たった一杯の水の恩義を、彼は命がけの誠に変えたのだ。
だが、たかが一杯の水の恩で、私の死後、こんなにも悲しむものなのか?その答えは、彼の涙の中にしかなかった。
私は柊征二の前に座り、じっくり彼を見つめた。彼の頬の骨格、眉の形、睫毛の長さまで初めて数えた。
今までまともに彼の顔を見たことがなかったが、改めて見ると、実に整った顔立ちで、凛とした美しさが私の好みにぴったりだった。淡い光に浮かぶ横顔は、冬の澄んだ空のようだった。
こんな美男子を三年も放っておいたなんて、私も相当見る目がなかった。自分の頑なさが恥ずかしくなる。
ただ、私はもう死んでしまった。悔やんでも、時計は巻き戻らない――そう思っていた。
風が吹き、私の霊体は徐々に透明になっていった。障子の隙間から漏れる寒風が、私を遠くへ連れていくようだった。
私はこれで本当に消えるのだと思った。薄い意識の縁に、彼の声だけがしがみついていた。
柊征二の髪が風に揺れ、彼は動かず私を抱きしめ、虚ろな目をしていた。目の中の世界が、私を失って空になっていた。
私は手を伸ばし、彼の顔をそっと撫でた。「もう悲しまないで。これからは誰もあなたを足枷にしない。思う存分出世して、私は天に昇るから」彼の額に触れた指先は、風に溶けて消えた。
私は風に乗って遠ざかり、意識を失っていった。闇は柔らかく、眠りに似ていた。










