第1話:名家の体面と商家娘の憤死
私は商家の娘、沢良木涼(さわらぎ りょう)。明治の名家・東条家に嫁いだ。商いの勘で育った私は、士族の商法がいかに見栄や古風な作法に縛られて失敗しやすいかを身に沁みて知っていたが、嫁いだばかりの頃は、それを口にすることはなかった。
夫の東条正之(とうじょう まさゆき)は名利に淡泊で、姑の東条静江(しずえ)は体面を何より重んじ、妹の東条知月(ちづき)は争いを好まず、未亡人の義姉・水無瀬雪乃(みなせ ゆきの)は静かで控えめな人だった。表向きは雅やかな一家――だが、内側は建前に薄紙一枚。風が吹けばめくれてしまうくらい脆い。行末には小さな毒が滲んでいた。
だが、ある日一家が政治腐敗の疑いで失脚し、私は護送の巡査に取り入り金を払い、労も惜しまず、この家族を北海道集治監まで送り届けた。帝都から北へ――凍てつく道のりは長く、商家の算盤では弾けない我慢と工夫が要った。道中の移送通知や収監予定先の通行手形も、冷たく現実の重みを帯びる。巡査は時折警棒で小突き、「歩け!」と怒鳴りつけた。法の枠内でも過酷さは十分だった。
ようやく落ち着いたところで、姑は私が体面を失い、外の男と親しくしたと非難した。彼女の言葉は、寒さよりも鋭く胸に突き刺さった。
夫は私に節操がない、東条家の婦にふさわしくないと言った。彼の声はいつもの和歌を詠む調子を装っていたが、そこにあるのは侮蔑と打算だけだった。
最後には、私は苦しめられて死に、彼らは私の実家が北海道集治監に事前に用意していた財産で、何不自由なく暮らした。私が整えた店も、暖も、彼らの口に入る食べ物も、すべて「体面」を守るための当然の支給品のように扱われた。
夫は義姉と関係を持つようになった。子どもの頃からの馴染みだと、彼らは言い訳した。
再び目を開けると、私は生まれ変わっていた。荒れた北の風の匂いも、冷えた畳の軋みも、記憶の奥底から蘇っていた。
今度こそ、自分の身だけ守ればいい。誰にも自分の算盤を触らせない。そう心に定めた。
「無知な女よ、さっさとその包みを下ろせ。こんな恥さらしな真似をするな!」
私の夫、東条正之は私の手から包みを奪い取り、見送りに来た友人に返した。
その人は包みを受け取ると、敬意を込めて深々と頭を下げた。「謙虚で名利に執着しない、さすが名士・東条殿。俗物であなたを煩わせてしまった。」言葉は穏やかでも、冬空のように乾いていた。
私は、上着も着ていないのに超然とした顔で竹笛を持つ東条正之を見て、はっとした。彼の立ち姿も口ぶりも、記憶そのままだ。
私は――生まれ変わったのだ。凍てつく空気の中で、喉の奥が熱くなるのを感じた。
前世、東条家は巨額の損失を抱えていたため、莫大な持参金を持つ私を辱めながらも娶った。霜の匂いが鼻を刺す。だが婚後間もなく、東条正之は政治犯罪の疑いで家を没収され、一家は北海道集治監へ移送された。車輪の軋みが耳に残る。士族の看板を盾にした商いは、数字の前では無力だった。
東条正之には何人か見送りの友人がいて、金品を贈ってくれた。
東条正之はそれを断った。私は東条家が根こそぎ奪われた様子を見て、体面もかなぐり捨てて金品を奪い返し、決して手放さなかった。凍える夜の火種は、綺麗事では手に入らない。
東条正之は顔を真っ赤にして袖を払った。「家門の不幸だ、こんな金のことしか頭にない節操のない女を娶るなんて!」
「俺は気骨がある。俗にまみれるくらいなら凍えて死ぬ方を選ぶ!」
姑の東条静江、妹の知月、義姉の雪乃も皆、世俗に染まらぬ聖女のように私を非難し、体面を失い、俗物に執着したと責め立てた。彼らの口から出る「高潔」は、寒風に舞う紙片のように薄っぺらだった。
周囲の人々はささやき合い、ちらちらと視線を投げた。東条家はさすが雅な家系、女子までもが気骨を持っていると囁く。誰もが薄い笑いを浮かべていた。
まさに生まれながらの誇り高さだ。誇りは飢えを凌ぐ、とでも言いたげに。
東条正之は一人一人と別れの挨拶をしながら、「千難万苦にも折れず、どの風にも揺るがぬ」と、寒気に震える声で一句を引いた。詩の響きが、冷たい石畳に虚しく跳ね返る。










