雨音と錆色の家 消えた遺体と、十四歳の誕生日に残されたもの

雨音と錆色の家 消えた遺体と、十四歳の誕生日に残されたもの

著者: 篠原 純


第5話: ケーキとハンマーの夜

俺はハンマーで釘を打っていた。乾いた音が壁に繰り返し跳ね返った。

そのとき、またドアが蹴破られた。ビニールが破れ、冷たい風が口の中に入ってきた。

父は目を血走らせ、鋭く磨かれた包丁を持っていた。刃先が蛍光灯の光を吸っていた。

「さっさと入居承認通知を出せ!早く出せ!」唾と怒りが混ざって、言葉が床に落ちた。

この辺りの家が取り壊しになり、最低でも五百万円もらえると聞いた。補償金の支給決定の通知や見込み額の案内、公営住宅の入居承認通知があれば、俺の借金も一気に返せる!もう逃げ回る必要もない!父の頭の中は金額の計算ばかり。数字のことしか考えていない。

「じゃあ、俺と夕子はどうなるの?」俺は聞いた。声は自分でも驚くほど冷たかった。

父は俺をバカを見るような目で見た。「お前ら?関係ないだろ!」鼻で笑う音が憎らしかった。

「だったらこっちも関係ない!」俺は父の口調を真似た。喉の奥で、何かが切れた。

彼はまた俺を蹴り、腹に当たった。空気が一気に抜け、膝から力が落ちた。

俺はテーブルのケーキの上に倒れ込んだ。甘いクリームの小さなケーキだった。白い山が崩れる音がした。

明日は俺の誕生日で、そのケーキは夕子がスーパーで一時間半並んで買ってきてくれたものだった。手の甲に残った冷たさが、列の長さを語っていた。

毎週火曜日、スーパーでは賞味期限間近のケーキが九割引で売られる。火曜の冷蔵ケースは、小さな希望であふれていた。

俺は痛みで膝をつき、顔中に酸っぱくなったクリームがついた。砂糖の匂いが、吐き気と一緒に込み上げた。

父は俺の髪をつかみ、無理やり顔を上げさせ、包丁で目を指した。刃先が瞼に影を落とした。

「このクソガキ、そんな目で見るな!またそんな目で見たら、目玉をくり抜いてやる!」低い声が耳に絡みついた。

興奮と苛立ちが混じった声で、「さっさと入居承認通知を出せ!」と叫んだ。包丁が言葉の最後で小刻みに震えた。

俺は肉のついた骨、床に押し付けられた骨、嫌な金田、細目の町医者、近所の夕子への陰口、凍えた手でケーキを持ち帰る夕子の姿、テレビで見た明るくて暖かい大きな家、夕子の明るい笑顔を思い出した。胸の中で全部が一度に燃え上がった。

ハンマーはまだ俺の手の中にあった。釘の頭を打ち込むための重みが、別の用途に切り替わった。

「分かった、どこにあるか知ってる、探してくる。」俺は静かに嘘をついた。

父は俺の髪を離した。指の跡が頭皮に残った。

「分かればいいんだ。」満足げな鼻息が荒れた。

彼は嬉しそうに振り返り、壊れたケーキを手づかみで食べた。口の端にクリームが白く広がった。

俺は手にしたハンマーで、父の頭を何度も叩きつけた。音は重く、世界の音がそれに従った。

ハンマーがこんなに軽いと感じたのは初めてだった。頭に叩きつけるたび、怒りが収まらなかった。軽さは、俺の中の何かを麻痺させた。

血が俺の顔や汚れた綿入りの上着、寝具、赤く燃えるストーブ、拾ってきたプラスチック板に飛び散った。飛沫の粒が一瞬光った。

父は息絶えた。呼吸の音が途切れ、部屋の静けさが変質した。

あなたへのおすすめ

雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか
雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか
4.7
雨上がりの河川敷、私は妖怪として人間の世界を静かに見下ろしていた。弟子に宝珠を奪われ、最愛の人も失い、流れ着いた先で双葉という愚直な女と出会う。久我家の本邸に入り込む陰謀と、血筋に絡まる呪い、欲望と愛が絡み合い、誰もが自分の居場所を探し続ける。失われた魂、封じられた記憶、そして救いのない運命の中で、双葉は静かに自分の道を選んでいく。雨音と雷鳴の間に、誰の願いが叶うのだろうか。人も妖も、未練を抱えて生きていくしかないのかもしれない。
雨の日に失われた約束と、記憶の彼方で
雨の日に失われた約束と、記憶の彼方で
4.8
雨音が静かに響く夜、私はかつて救ったはずの彼女と、すれ違い続けていた。結婚という約束のもとで隣り合う日々も、元主人公の帰還をきっかけに、次第に心の距離が広がっていく。信じたい気持ちと、消えない疑念。思い出も、愛も、記憶の波に飲まれていく中で、私はこの世界に残る意味を見失ってしまった。すべてを忘れてしまう前に、本当に伝えたかったことは何だったのだろう。二人の始まりと終わりは、雨の中に溶けてしまったのかもしれない。
消された娘の声が響く夜
消された娘の声が響く夜
4.9
二十年前、家族の都合で幼い娘を家に閉じ込めた父・信吾。息子の結婚を機に、長く封じてきた罪と向き合う決意をするが、失われた娘の声が再び家に響き始める。家族の絆と赦し、そして許されぬ過去が暴かれるとき、運命の扉が静かに開く。
雨上がりの家を出て、私は私になる
雨上がりの家を出て、私は私になる
4.5
八年付き合った恋人に裏切られ、実家の冷たい家族と再び向き合うことになった美緒。子どもの頃から差別と孤独に耐え、愛を渇望し続けた彼女は、家族の中で自分だけが居場所を見つけられずにいた。偽物の彼氏との偶然の再会や、父との静かな絶縁を経て、長年縛られてきた関係から静かに解き放たれる。雨の町で、誰にも頼らず自分の足で歩き始めるとき、彼女の心に初めて静かな自由が訪れる。最後に残る問いは、「本当の愛や家族は、どこかに存在するのだろうか?」
十年分の空白と、約束の夏が遠くなる
十年分の空白と、約束の夏が遠くなる
4.7
十年分の記憶を失った俺の前に、幼なじみであり妻であるしおりは、かつての面影を消し、冷たい視線を向けていた。華やかな都心のマンション、豪華な暮らし、しかし心の距離は埋まらない。ALSの宣告と、戻らない過去。しおりの傍らには、見知らぬ男・昴が立つ。交わしたはずの約束は、現実の波に流されていく。あの日の夏の笑顔は、もう二度と戻らないのだろうか。
数字に刻まれた夜、沈黙の証人
数字に刻まれた夜、沈黙の証人
4.7
共通テストの発表日に、親友の死が静かに訪れた。数字に刻まれた遺体、疑惑の視線、そして次々と消える仲間たち。警察の取調室で、星名怜はただ沈黙を守り続ける。亡き友と交わした最後の時間、焼け落ちた家、交錯する嘘と記憶、誰もが何かを隠している。真実を語る者はいないまま、残された者の罪だけが静かに積み重なっていく。この物語の終わりは、まだ遠いのだろうか。
十年目の夜、捨てられた子猫のように
十年目の夜、捨てられた子猫のように
4.9
十年という歳月を共にした恋人が、ある夜に裏アカウントで自分への本音を吐露していたことを知った大和。湾岸マンションの夜景も、キャンドルディナーも、指輪も、全てが静かに崩れていく。年の差や社会的な壁を乗り越えようとした日々、幼い恋人・陸のわがままも、涙も、すべて抱きしめてきたはずだった。しかし、偽りの愛と、すれ違う孤独が積もり、二人は静かに別れを選ぶ。札幌の冬、東京の会議室、そして暗いビジネスパーティーのトイレ——再会のたびに残る痛みと、触れられない距離。最後に残ったのは、捨てられた子猫のような自分自身と、彼のいない朝の光だけだった。それでも、もう一度だけ彼を愛してもよかったのだろうか。
夜の檻がほどけるとき、娘の微笑みは戻るのか
夜の檻がほどけるとき、娘の微笑みは戻るのか
4.8
夜の大宮、何気ない家族の時間が、一通のLINEで崩れ始めた。コスプレを愛する娘・美緒の無垢な日常に、ネットの悪意が静かに忍び寄る。父と母は、守るために倫理を越え、罪の闇に手を染めていく。家族の絆、すれ違う信頼、交差する他者の欲望と嫉妬。その果てに残された沈黙は、やさしさか、それとも終わりなき罰なのか。 本当に守りたかったものは、何だったのだろうか。
白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった
白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった
4.8
港区の夜景を背に、桐生司は愛する妻・理奈の心が遠ざかるのをただ静かに受け入れていた。初恋の人・仁科の目覚めによって揺らぐ夫婦の絆、家族の期待と冷たい視線、そして交差する過去と今。理奈との間に芽生えた新しい命さえも、すれ違いと誤解の中で失われていく。誰も本音を口にできず、沈黙だけが積もっていく日々。やがて司はすべてを手放し、新たな人生へと歩み出すが、失われたものの重さだけが胸に残る。もし、あの日の雨が止んでいたら、二人は違う未来を選べたのだろうか。
あの夏の五分前、もう一度家族を救いたい
あの夏の五分前、もう一度家族を救いたい
4.7
真夏の夜、家族を惨劇から救えなかった少女・茜は、十八年の地獄を経て、気づけば家族が殺される五分前に戻っていた。震える手で選んだ小さな勇気と、絶望の中で交わされる家族の言葉。信じてもらえぬまま、静かに迫る死の影。茜は過去の記憶と家族への愛だけを頼りに、運命に立ち向かう。夜明け前の闇の中、救いは本当に訪れるのだろうか。