雨上がりの家を出て、私は私になる / 第4話: デブ虫の恩返しと雨の予感
雨上がりの家を出て、私は私になる

雨上がりの家を出て、私は私になる

著者: 相川 すず


第4話: デブ虫の恩返しと雨の予感

エレベーターの中で、私は彼の手を離した。長い間握っていたので、手のひらが少し汗ばんでいた。熱が引いていくのを感じる。

気まずくなり、手を引っ込めて体を小さくした。視線は足元に落ちる。

隼人は一瞬戸惑いながらも、気にせずポケットに手を入れ、足を曲げて壁にもたれた。肩の力を抜いたまま、黙って呼吸を整える。

何も言わず、何も聞かなかった。密閉された空間に、私たちの呼吸だけが響いている。天井の蛍光灯が少しだけ唸った。

彼のさっきの完璧な演技を思い出し、私は顔を上げてその不敵な顔を見た。平凡な服装なのに、場数を踏んだ人間の目をしていた。

初対面で見た目だけで判断した自分を恥じた。人の中身は、場面で現れる。

私は口元に微笑みを浮かべた。「ありがとう。今日のギャラは倍で払うわ。」あえて冗談めかして礼を言う。重たさを軽くしてくれる言い方だった。

彼は首を振った。「いいよ。」断り方も、軽やかで押しつけがましくない。

私が不思議そうにすると、

「本当は俺の友達が予約を受けたんだけど、急用ができて代わりに来たんだ。現場からそのまま来たから、ちゃんと着替えもできなくて、ごめん。」

私は意外だったが、思い返せば納得できた。どうりで、昨日オンラインで報告された名前と今日の名前が違っていたのか。名簿と当日交代――地元のサービスならあり得ることだ。

「恥をかいたのは私の方よ。今日誰が来ても、うちの家族には歓迎されなかっただろうし。でも、来てくれたのがあなただったから助かった。」

他の人なら、ただ芝居を合わせてくれるだけだったろう。危険を冒してまで私を庇ってくれる人はいなかったはずだ。

今の世の中、レンタル彼氏どころか、本物の彼氏でも頼りにならないことが多い。皮肉じゃなく、現実だ。

エレベーターが開いた。金属の開閉音が、外の湿った空気を連れてくる。

私たちは前後して外に出た。靴音が真っ直ぐ廊下に伸びる。

彼は私の後ろからゆっくりと話しかけてきた。「美緒、俺は何でも引き受けるわけじゃない。忘れたのか?お前、高校の同級生に三上隼人っていたろ?」

私は足を止め、振り返って彼を見つめた。心の底から古い箱が開く音がした。

彼は手をポケットに入れたまま、眉を上げて私を見下ろす。目は、少しだけいたずらっぽい。

まだ疑問が消えない私に、

彼は喉を鳴らし、愉快そうに笑った。「高校時代、俺のあだ名は“デブ虫”だったんだ。」

デブ虫……デブ虫……

記憶の糸が揺れ、私は思わず声を上げた。「あなた……どうして……」

私の記憶の中のデブ虫は、背が低くて太っていて、顔の肉で目鼻立ちもよく分からなかった。そのせいで、学校では同級生からいじめや疎外を受けていた。

時々見かねて、私は彼をかばったことがあった。教室の隅で、彼の教科書を拾って渡した日を覚えている。

だが、ほどなくして彼は退学してしまった。理由は誰も教えてくれなかった。

記憶の中のデブ虫と、目の前の彼は全く重ならない。痩せて背が伸び、目に芯がある。

隼人は肩をすくめた。「俺は恨みも恩も忘れないタイプだ。お前が昔助けてくれたから、今はその恩返しさ。しばらくS市にいるから、何かあれば遠慮なく言えよ。」彼の言い方は派手さがなく、真っ直ぐだった。

隼人と別れた後、

私は目的もなくこの小さな町をさまよった。狭い空の下、同じような民家が並ぶ路地をゆっくり歩く。

頭の中がごちゃごちゃで、何を考えているのか自分でも分からない。ただ、濡れたアスファルトを踏む音だけがやけに大きく聞こえた。心は重く、足取りは宙に浮くようで、現実から逃げている気分だった。

ちょうど、健也との八年間の関係のように。形はあるのに、中身は散らかっている。

二十二歳から三十歳まで。私の最も自由で輝かしい年月は、すべて彼と共に過ごした。季節ごとの色が、彼の横顔に塗り替えられていった。

家庭の愛に飢えていた私は、彼を愛することで不安に駆られ、恐れ続けていた。失わないために、ずっと自分を少なくしてきた。

必死に尽くし、気を遣い、理解し、受け入れ、自分の欲求はすべて隠し、

彼を見上げていた。見上げ続ける首は、いつの間にか痛みを覚えなくなっていた。

そうすれば、彼は私を捨てないと思っていた。信じることが、唯一の支えだった。

だが、滑稽なことに、

私がすべてを捧げた愛は、最後には誠実な別れさえも与えられなかった。幕引きの一礼すら、彼はしなかった。

雨が降り始めた。薄い水の膜が、町を静かに覆う。

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