第3話: 五百万円で値踏みされる娘
母が亡くなる前、彼は私を宝物のように大事にしていた。私を「娘」と呼び、肩車して星や月を見せてくれた。夜風の匂いと、彼の笑い声を私は覚えている。
だが陽子が家に入ってから、全てが変わった。家の空気は重くなり、私の居場所は薄くなった。
母を失った私は、内向的で敏感になった。陽子には強く当たれず、莉奈にも手を出せない。弱いのは、いつも私だけだった。
一家の主としての威厳は、私への八つ当たりでしか発揮できなかった。私が黙れば黙るほど、彼は強くなった気でいた。
陽子母娘を喜ばせるために、私を抑えつけ、辱めてまで彼女たちの笑顔を得ようとした。愛の代わりに、承認を求めた結果だ。
大人になった今も、彼は無意識に私を“差し出す道具”として扱っている。誰かのための犠牲は、彼の中では美徳なのだろう。
私は拳を握りしめ、爪が肉に食い込む。痛みで自分をつなぎ止める。
もう覚悟はできていた。分籍は諦めてもいい。紙一枚のために、魂を売るつもりはない。
どうせ健也とも、結婚には至らないのだから――
怒りが収まらないその時、
大きな手が私の手の上に重なった。温度がすっと入ってくる。
隼人が私の指をそっと解き、ふざけた態度を収め、肩の半分で私を庇うように立った。壁みたいに、私の前に立つ。
冷ややかな声が落ち着いた調子で響く。「娘売ってる親は見たことあるけど、自分の娘、火に投げ込む親は初めて見たわ。もうそういう時代じゃないだろ。結婚は親のもんじゃない。俺と美緒……この先もずっと離れられないだろうな。」言葉の端々に皮肉とまっすぐさが混ざる。
彼は私の手をしっかり握り、鋭い視線で浩一、そして陽子を見回した。沈黙が、彼の言葉に重みを与えた。
平静な語り口に、皮肉と警告が混じる。ここから先は、昔のやり方は通用しない、と。
私は彼の背中の陰で、涙がこみ上げてきた。胸の奥が緩む。
目の前には攻撃的な実父。背後には八年付き合った裏切りの男。どちらにも寄りかかれない。
この家で、初めて誰かが私のために立ち上がってくれた。たとえ偽物でも、胸が震えた。偽物の役者が、本物の勇気をくれた。
私は彼の手を握り返し、白髪が混じり始めた浩一をまっすぐ見つめた。視線はもう揺れない。
もう何も感じなかった。「もし母があの世で見ていたら、一番後悔するのはあなたと結婚したことだと思う。自分も救えず、私も守れなかった。世の中にあなたほど情けない男はいないわ。」
母の病気は、発見時は治らないものではなかった。だが、いざお金が必要になった時、家の貯金は浩一が友人の起業資金に勝手に投資してしまっていた。
資金を引き上げようとしたが、相手は言い訳ばかりで、一銭も戻らなかった。電話の向こうで聞いた苦しい言い訳を、私は忘れない。
母は経済的な理由で治療のタイミングを逃した。その間、浩一は発狂したように金を借り、三つの仕事を掛け持ち、夜中に泣きながら後悔していた。床に落ちるその涙の音を、私は知っている。
その時の情の深さや苦しみは本物だった。そこだけは否定できない事実として、私の中に残っている。
母も最期に私にこう言った。「お父さんを責めないで。本当は悪い人じゃない、ただ騙されただけよ。私がいなくなったら、あなたにとって一番大切な人はお父さんだから、ちゃんとお父さんの言うことを聞いて大人になりなさい。」
母が亡くなった時、彼は誰よりも悲しみ、落ち込んでいた。家の空気が凍った数ヶ月を、私は覚えている。
私は、彼が母を本当に愛していたと思っていた。運命が不公平だっただけだと。
だから、母が亡くなって半年も経たないうちに、彼が陽子母娘を家に連れてきた時も、
驚きはしたが、彼の顔に生気が戻ったのを見て、安心した。誰かと話す声が戻ってきたことに、救われた気がした。
私にはもう父しかいなかった。彼には幸せになってほしかった。
それが八歳の少女の、純粋な願いだった。幼い祈りは、単純で真っ直ぐだった。
だが私は知らなかった。人は生まれつき自分勝手で、臆病で、演技やごまかしが得意な者もいることを。大人になるって、そういうことなのだと知るのはもっと後だった。
結局、私だけが、あの親を失った大雨から抜け出せなかったのだ。ずぶ濡れのまま、長い年月を歩いた。
私の冷たい返答に、浩一は目を見開いた。驚きの表情が顔に張り付いたままだ。
きっと、私があの過去を何も知らないと思っていたのだろう。私は一度も彼を責めたことがなかったから。
私の真っ直ぐな視線に、彼は気まずそうに目を伏せ、唇を動かし何か言おうとしたが、結局何も言えなかった。言葉は出る前に、彼の中で萎んだ。
そんな彼に、陽子は苛立ち、彼を乱暴に引き離して私たちの前に出てきた。ヒールの音を鳴らして、主導権を奪う。
私と隼人が手を握るのを睨み、冷笑する。「五百万円!まずは今までにかかった養育費の清算として三百万円。それから実家名義の借金の残り二百万円も肩代わりしてもらうわ。どうしても一緒になりたいなら、それくらい払ってもらう。さもなきゃ、その借金の清算にあんたの名前で判を押さない限り、結婚なんて絶対に許さないから。」この町の閉塞と欲が、一本の線になって私の喉に刺さる。
私と隼人が返事をする前に、
後ろの健也が立ち上がった。さっきまでの上品な顔つきは消え、冷ややかな目で陽子を見下ろした。
「この家の嫁入り条件が、『これまでの養育費の清算と借金肩代わりで現金五百万円』だとは知らなかったよ。有村家の“風習”はなかなか手強いな。どうやら、俺は身の程知らずだったようだ。用事があるから、今日はこれで失礼するよ。」冷笑の入り混じった響きが、場を切る。
そう言い残し、スーツを整えて颯爽と出ていった。ドアが閉まる音が、妙に大きく感じられた。
私のそばを通り過ぎる時、彼の目は暗く揺れていた。何か言いたそうで、何も言わない目。
健也が立ち去るのを見て、莉奈は怒りで足を踏み鳴らした。「ママ、何してるの?私のことが決まってからでも遅くないでしょ?それに、手続きはあなたたちが握ってるんだから、逃げられやしないわよ、何を焦ってるの。」
バッグを掴み、私と隼人を睨みつけて、急いで後を追った。足音は急で、焦りだけが先走っていた。
二人が去った後、私も隼人を連れて家を出た。陽子の狂ったような言葉は、もう一言も聞きたくなかった。背中まで黒い空気がまとわりつくようで、外気が恋しかった。










