雨上がりの家を出て、私は私になる / 第1話: 玄関で奪われた八年
雨上がりの家を出て、私は私になる

雨上がりの家を出て、私は私になる

著者: 相川 すず


第1話: 玄関で奪われた八年

高坂健也と付き合って八年。彼が、見栄えのいい紙袋を手に私の実家へやってきた。彼の持つ紙袋がやけに立派で、思わず目がいく。玄関に流れる湿った空気に、私は息を詰める。……この町は、誰かが家のドアを叩けば、すぐに噂になる場所だ。それでも、健也なら大丈夫だと思っていた。

ドアを開けた瞬間、私も彼も固まった。昨夜の電話で「明日、出張で他県に行くからご両親に会えない」と言われたばかり。その言葉がまだ耳の奥に残っている。サプライズで来てくれたのかと、胸の奥がほんのり温かくなった。

ちょうど手土産を受け取ろうとした時、義妹の莉奈が駆け寄ってきて、私を脇へ押しやった。

莉奈は歓声を上げて健也に抱きつき、舌をちょろりと出して照れたように言う。「お姉ちゃん、これが私の彼氏、高坂健也よ。」明るい声が弾むたび、私の内側を冷たいものが走る。笑顔の奥の目は、計算高い光を帯びていた。

見慣れた二人の顔がぴたりと寄り添う。頭の中が轟音とともに真っ白になり、視界が歪む。足元から体温が抜けていく。こんな安いドラマみたいな場面が、現実に、しかも自分の玄関で起きるなんて。

莉奈はまだにこにことしている。「そうだ、お姉ちゃんの彼氏も今日来るんだっけ?」私はぼんやりと頷いた。「もうすぐ来るわ。」自分の声が遠く感じる。

継母の陽子は満面の笑みで健也を家に招き入れ、「美緒さん、早く来て、莉奈の彼氏が来てくれたわよ。早く挨拶しなさい」と言う。ついでのように「美緒、お茶を入れてきなさい」と命じる。その口調は家政婦への指示のようだ。ここでは世間体がすべて。見栄えのいい客には笑顔、家族には命令――この家の秩序はいつもそうだった。

莉奈は健也の腕に絡みつき、私に愛想よく微笑む。「お姉ちゃん、お疲れさま。」私は黙って男を見つめる。八年分の思い出が走馬灯のように胸をよぎる。

健也は洗練されたカジュアルスーツに金縁メガネ。今日のために相当気を遣ったのだろう。靴の先まで新品の艶があり、ミントの香りがほのかに漂っていた。

健也も、こんな場面になるとは思っていなかったのだろう。動揺が隠せず、私と目を合わせようとしない。視線は私の肩の上、どこか安全な空白を探して彷徨っている。

進退窮まったその時、陽子が割り込んで彼を熱心に招き入れた。莉奈と一緒に彼の腕を引っ張り、私のそばをすり抜けてリビングのソファへと向かう。陽子の香水の匂いだけが肩に残った。

「美緒、まだぼーっとして何してるの。東京で働いてるくせに、家にお客さんが来ても気が利かないなんて。」陽子は私を一瞥し、また健也に笑顔を向ける。「健也さん、気にしないでね。これは莉奈のお姉ちゃんで、小さい頃からちょっと鈍いの。ちょっとしたこともまともにできなくて、もうすぐ三十歳なのに、家に連れて来られる相手もいない。本当に困ったもんだわ。」その言いぐさは世間への見栄。家族の内面より、外への体裁がすべてだった。

父の浩一が部屋から出てきた時、ちょうど陽子が私を叱っているところだった。彼は私を一瞥し、何事もなかったかのように無表情でリビングへ向かった。見て見ぬふりは、この家の習慣であり、彼の生き方そのものだった。

四人は楽しげに笑いながらソファに座る。玄関で一人立ち尽くす私は、この家に居場所がないようだった。壁の安い風景画も、擦り切れたソファの端も、私を拒むように見えた。

浩一の態度にはもう慣れている。八歳で母を亡くしてから、陽子が家に入ってきて、彼は父親として最低限の義務しか果たさなくなった。私の名前を呼ぶ声も、いつも義務の響きだった。

陽子の叱責や説教は、彼の沈黙の中でますます激しくなり、遠慮がなくなった。黙っていれば、声の大きい方が正義になる――そんな空気の中で、私は長く息をしてきた。

この屋根の下、もう一人の少女――陽子が連れてきた莉奈は、私とはまったく違う生活を送っていた。光の当たる側と、影に押し込まれた側。同じ家でも、世界は違った。

食べ物、衣服、住まい、何でも陽子は莉奈に最善を尽くした。クリスマスのケーキは大きく、誕生日のプレゼントは派手で高価。私には「我慢する力」を教えるのが教育だと主張した。

彼女の口癖は「女の子は大事に育てなきゃ、大きくなってから貧乏な男に騙されないようにね。」甘い砂糖衣みたいな言葉が、私の喉に刺さった。

その“女の子”に私は含まれていない。言外に線を引かれる感覚は、子どもの頃から変わらない。私だけ、壁のこちら側だった。

莉奈が何万円もするダンスレッスンに通う一方で、私は数千円の参考書代にも悩んでいた。陽子は私の前でいつも泣き言を言った。「お父さん一人の給料で、こんな大家族を養うのがどれだけ大変かわかる?私がやりくりしなかったら、来月には食べるものもなくなるわよ。その参考書、本当に必要なの?授業中にちゃんと先生の話を聞けば、それで十分よ。小さいうちから人と張り合うものじゃないわ。」

もちろん、そのお金は絶対にくれなかった。財布は固く閉じられ、鍵は彼女だけが持っていた。

だが、莉奈の英語の成績が悪いと知るや否や、すぐに家庭教師を雇った。やりくりの泣き言は、その時だけ消えた。

こんなことは日常茶飯事だった。小さな差が積み重なって、大きな溝になる。その溝を眺めながら、私は育った。

莉奈がこの家に来たばかりの頃は、まだ少し恥ずかしがっていた。母親の後ろについて、小声で「お姉ちゃん」と呼んだ。あの時の声は柔らかかった。

その素直さに、こんな抑圧された家でも妹がいるのは悪くないと思ったこともあった。孤独に新しい名前がついたような気がした。

だが、陽子の冷遇と浩一の無関心を見て、莉奈もこの家の力関係を悟っていった。ここは母親が全てを決める家で、私は最下層の住人。笑顔の裏で彼女は学び取った。

そうして莉奈は本性を現し、私のものを遠慮なく奪い、何度も限界を試した。奪えば奪うほど、彼女はこの家の“王女”になっていった。

他のものはどうでもよかった。ただ、母が生前にくれたプレゼントだけは必死に守り、鍵をかけてタンスにしまっていた。あれだけは、私の世界の最後の灯りだった。

ある日、学校から帰ると、莉奈が得意げな顔で私を見ていた。幼いながらも意地の悪い笑み。嫌な予感が背筋を冷たく撫でた。

胸騒ぎがして、急いで自分の部屋へ駆け込む。鼓動が耳の奥で跳ねる。

古いタンスの扉はこじ開けられ、小さな鍵は跡形もなかった。中のものは床に散乱している。畳の目に沿って、思い出がばらばらに転がっていた。

私は床にしゃがみ込み、呆然とし、涙をためていた。指先が震え、呼吸が浅くなる。

莉奈はドアの横に寄りかかり、にこにこと私を見下ろした。「くれないからよ。何が宝物かと思ったら、ただのガラクタじゃない。誰も欲しがらないよ。」子どもの残酷さを完璧に体現した一言だった。

それが、母娘がこの家に来てから、私が初めて不公平に抗い、反撃した日だった。堪えるばかりの自分が、初めて歯を剥いた。

私は立ち上がり、莉奈の髪を掴んで床に引き倒し、その上にまたがって左右の頬を平手打ちした。乾いた音が二度、部屋に響いた。

陽子が騒ぎを聞きつけて駆け込んできた。足音が怒りを連れてくる。

その夜、私は一時の怒りをぶつけた。だが、陽子に媚びようとする浩一に、ベランダに吊るされ、ベルトで何時間も打たれた。夏の夜風が肌に刺さるほど冷たかった。その後、近所の人が異変に気づいて通報し、児童相談所が一度やってきた。けれど父が泣きながら謝り、形式的な指導だけで終わった。結局、私はこの家に残された。

陽子が無表情でいる限り、浩一はやめようとしなかった。泣き叫ぶ莉奈は傍で「やっちゃえ!」と応援していた。幼い声の煽りは、私の記憶に深い傷を残した。

もし近所の人が通報していなければ、私は十歳のその年に死んでいたかもしれない。S市の狭い路地の噂話が、この時ばかりは命綱になった。

リビングの家族と健也を見て、ふと自分の人生が滑稽な冗談のように思えた。舞台に上がるたび、私はいつも脇役だった。

最初の十年は屈辱に耐え、必死に生き延び、次の十年は全身全霊で人を愛し、誠実であろうとした。どちらの十年にも、私の“居場所”はなかった。

だが、その全てが現実の平手打ちとなって胸に重くのしかかる。息を吸うたび、痛みが胸骨の裏に居座る。

幼い頃に母を失い、その後も父の愛を一度も感じたことはなかった。愛は声にならず、目にも宿らなかった。

健也が私の救いになると思っていたが、それも結局は自分の幻想だった。幻想はいつだって、音もなく崩れる。

きっと、私のように生まれつき孤独な人間は、家族も、愛される資格も持たないのだろう。そんなふうに自分を下に置いて、長い間呼吸してきた。

思いが巡る中――ドアベルが鳴った。小さな電子音が、場の空気を切り裂く。

リビングの会話が止み、不審そうにこちらを見ている。陽子の眉間にわずかな皺が寄った。

あなたへのおすすめ

雨の日に失われた約束と、記憶の彼方で
雨の日に失われた約束と、記憶の彼方で
4.8
雨音が静かに響く夜、私はかつて救ったはずの彼女と、すれ違い続けていた。結婚という約束のもとで隣り合う日々も、元主人公の帰還をきっかけに、次第に心の距離が広がっていく。信じたい気持ちと、消えない疑念。思い出も、愛も、記憶の波に飲まれていく中で、私はこの世界に残る意味を見失ってしまった。すべてを忘れてしまう前に、本当に伝えたかったことは何だったのだろう。二人の始まりと終わりは、雨の中に溶けてしまったのかもしれない。
雪解けの輪郭に、僕はもう家族を呼ばない
雪解けの輪郭に、僕はもう家族を呼ばない
4.5
雪の降る東北の町で事故に遭い、家族の冷たさに人生を奪われた晴樹は、二度目の人生を与えられる。今度こそ優しさを捨て、冷静な論理で家族の運命に立ち向かうことを決意した。配信という新たな武器で家族の本性を世にさらし、かつて自分が味わった絶望を静かに返していく。季節が巡り、因果が静かに収束していく中、晴樹は雪解けのような自由を手に入れる。家族の物語は、もう彼の人生の輪の外側で静かに終わろうとしていた。 それでも、あの雪の記憶は本当に消える日が来るのだろうか。
雪の果て、私だけの自由を求めて
雪の果て、私だけの自由を求めて
4.8
名家・東条家に嫁いだ沢良木涼は、商家の娘としての実利と知恵を持ちながらも、体面を重んじる家族に冷たく扱われ、やがて裏切りと孤独の果てに命を落とす。しかし再び生まれ変わり、今度こそ自分のために生きることを誓う。北海道への流刑の旅路で、家族の偽善や弱さ、欲望の本質を静かに見つめ、やがて自身の手で新たな人生を切り開いていく。雪に閉ざされた大地で、失ったものと得たものの重みを胸に、涼はもう誰にも頼らず歩き出す。人は本当に過去を超えられるのだろうか。彼女の選択が、静かな余韻を残す。
雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか
雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか
4.7
雨上がりの河川敷、私は妖怪として人間の世界を静かに見下ろしていた。弟子に宝珠を奪われ、最愛の人も失い、流れ着いた先で双葉という愚直な女と出会う。久我家の本邸に入り込む陰謀と、血筋に絡まる呪い、欲望と愛が絡み合い、誰もが自分の居場所を探し続ける。失われた魂、封じられた記憶、そして救いのない運命の中で、双葉は静かに自分の道を選んでいく。雨音と雷鳴の間に、誰の願いが叶うのだろうか。人も妖も、未練を抱えて生きていくしかないのかもしれない。
雨音と錆色の家 消えた遺体と、十四歳の誕生日に残されたもの
雨音と錆色の家 消えた遺体と、十四歳の誕生日に残されたもの
4.9
川崎臨海の雨が打ちつけるバラックで、夕子と翔は互いの傷を抱えながら生きてきた。幼い頃から家族として寄り添う二人の静かな日々は、父・剛造の突然の帰還によって崩れ去る。暴力と貧困、家族の断絶、そして立ち退き料という現実の数字が、ささやかな希望と絶望を交錯させる。翔は父を殺し、夕子と金田はその遺体の処理を試みるが、血の跡と消えた遺体、そして警察の淡々とした追及が、彼らの過去と現在を静かに揺らす。小さなケーキ、冷たい風、そして家族の名残が、心に残る影となっていく。二人の未来に、ほんのわずかな光は射すのだろうか。
冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき
冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき
4.9
形だけの結婚生活に終止符を打つ日、静かな丘の街に冬の気配が忍び寄る。幼なじみとして二十年寄り添った小雪との別れは、静かで痛みを伴うものだった。湊は母の看病や離婚の現実に揺れながらも、自分を大切にしてくれるひよりの温かさに少しずつ心を解かれていく。すれ違い、諦め、そしてようやく訪れた新しい愛のかたち。遠ざかる影と、差し込む光。そのどちらも胸に残したまま、湊は静かに歩き出す。 本当に、大切なものはどこにあったのだろうか。今度こそ、自分の幸せを信じていいのだろうか。
初雪の日から、白髪になるまで一緒にいよう――僕が“当て馬幼馴染”だった世界の果て
初雪の日から、白髪になるまで一緒にいよう――僕が“当て馬幼馴染”だった世界の果て
4.8
仙台の灰色の空と欅並木、凍える冬の街で、僕は幼なじみの美羽と二十年の季節を重ねてきた。物語の“当て馬幼馴染”として、彼女の心が主人公へ引き寄せられていくのを静かに見守るしかなかった。約束を破られた誕生日、冷たいケーキの甘さが胸に沈む。やがて僕はこの世界からログアウトを申請し、別れの準備を始める。思い出を辿り、出会いの場所を巡りながら、彼女との最後の初雪を迎える。消えていく記憶の中で、残されたのは静かな愛と痛みだけ。「初雪の日から、白髪になるまで一緒にいよう――」その言葉は、もう誰にも届かないのだろうか。
白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった
白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった
4.8
港区の夜景を背に、桐生司は愛する妻・理奈の心が遠ざかるのをただ静かに受け入れていた。初恋の人・仁科の目覚めによって揺らぐ夫婦の絆、家族の期待と冷たい視線、そして交差する過去と今。理奈との間に芽生えた新しい命さえも、すれ違いと誤解の中で失われていく。誰も本音を口にできず、沈黙だけが積もっていく日々。やがて司はすべてを手放し、新たな人生へと歩み出すが、失われたものの重さだけが胸に残る。もし、あの日の雨が止んでいたら、二人は違う未来を選べたのだろうか。
追い出した入り婿と、乱世を越えてもう一度手をつなぐ日
追い出した入り婿と、乱世を越えてもう一度手をつなぐ日
4.8
家を守るために入り婿の征十郎を追い出した夜、私は胸の奥に沈んだ罪悪感を抱え続けてきた。乱世の中で彼は総司令となり、再び私の前に現れる。冷たい言葉と不器用な優しさが交錯し、過去の傷と誇りが揺れる。周囲の人々や旧家のしがらみ、戦乱の波に翻弄されながらも、二人は静かに距離を測り直していく。手に残る傷跡も、互いに寄せる想いも、時を超えて形を変えていく。夕陽の宮城に影を寄せ合いながら、二人の十年が静かに始まるのかもしれない。
十年後の妻は知らない私
十年後の妻は知らない私
5.0
卒業式の夜、勇気を振り絞り片思いの晴人に告白した詩織は、気がつけば十年後の自分――晴人の妻として目覚めていた。記憶もないまま大人になり、子供までいる現実に戸惑う詩織。過去と未来が交錯する中、彼の日記が二人の運命をつなぎ直す。夢と現実の狭間で、彼女は本当の愛を見つけ出せるのか。