雨の日に失われた約束と、記憶の彼方で / 第1話:元主人公が帰ってきた夜
雨の日に失われた約束と、記憶の彼方で

雨の日に失われた約束と、記憶の彼方で

著者: 松本 玲奈


第1話:元主人公が帰ってきた夜

私は小説の中に転生し、苦しむサブヒロインを救った。

任務が終わった後、彼女は必死に私にここに残ってほしいと懇願した。

その後数年、私たちは結婚し、誰もが羨む理想のカップルとなった。

だが、そんな折、元主人公が突然帰国した。

私の隣で眠る美織は、どこか心ここにあらずな様子が目立つようになった。

私は一言たずねただけなのに、彼女は苛立ったようにきつく言い返してきた。

「そんなに疑ってばかりいるの、やめてくれない? どうせあなたはもう元の世界に戻れないんだから」

美織は言い終わるや否や、自分の発言に気づいた。

彼女は身を翻し、闇の中で私の手をぎゅっと握り締めた。

「総司、そんなつもりじゃなかったの」

私は返事をしなかった。胃のあたりに鉛を詰められたみたいに重く、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたようだった。

しばらく重い沈黙が続いたあと、美織は身をかがめ、顔を私の首筋に埋めてそっと擦り寄ってきた。

「怒らないで、ね?」

私はやはり何も言わなかった。

美織の唇がそっと私に触れ、指先がベルトにかかって、シャツの裾の内側へそっと手を滑り込ませようとしてきた。

彼女が何をしようとしているのか分かっていたが、私は全く応じる気になれず、力いっぱい彼女を突き放した。

「ごめん、今はそういう気分じゃない」

背後で短い沈黙が続いたあと、美織はようやく離れていった。

彼女は眉間を揉みながら起き上がり、テーブルランプを点けた。

「あなたが私に触られるのが嫌なら、私は向かいの部屋で寝るわ」

私は背を向けたまま、黙ってうなずいた。

部屋を出る前、美織はもう一度振り返って私を見た。

「総司、私は疑り深い男が嫌いなの、あなたも知ってるでしょ……私があなたと結婚した以上、そんな簡単に別れたりしない」

まるで自分がどれほど失望しているかを強調するかのように、美織はまた大きくため息をついた。

「前はこんなじゃなかったのに、今はどうしちゃったの?」

そう言い終えて、彼女は静かにドアを閉めた。

私は布団の中で鼻をこすり、込み上げる苦しさを必死に押し殺した。

美織がさっき言いかけてやめた半分の言葉が何だったのか、私たちにはよく分かっていた。

要するに、彼女が言いたかったのは――

「あなたは私のためにこの世界に来たし、私のためにここに残っている。この世界で一番大事なのは私で、どんなにあなたが今怒っても、結局は私と仲直りするしかないんじゃない?」

そんなことを考えると、私はひたすらやるせなさを感じた。

暗闇の中、じりじりと時間が過ぎていく。

天井の模様をぼんやり数える。ひとつ、ふたつ……どこまで数えたか分からなくなり、息が浅くなる。

眠気は一向に訪れず、ただ静寂だけが重くのしかかる。

まるで永遠にも思える時間が過ぎた頃、外から突然スマートロックの解除音が聞こえた。

私は驚いてベッドから跳ね起きた。

美織は向かいの部屋に入ってから一度も出てきていない。では、誰がドアを開けたのか?

外の足音がどんどん近づいてくる。

私の手のひらはすぐに汗で濡れた。

心臓が喉から飛び出しそうな時、向かいの部屋のドアが突然開いた。

「悠斗?」

私を驚かせないようにと、美織は声を落としていたが、驚きを隠しきれなかった。「どうしてあなたが?」

悠斗は少し緊張しているようだった。「ごめん、君が前に僕の指紋登録を削除してなかったみたいで……ふとタッチしたら、開いちゃったんだ。行くあてもなくて、つい無意識にここに来てしまった」

「ただ、まさか本当に開くとは思わなかった。本当にごめん」

私は暗闇の中でその会話を聞きながら、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちていく気がした。

あなたへのおすすめ

十年分の空白と、約束の夏が遠くなる
十年分の空白と、約束の夏が遠くなる
4.7
十年分の記憶を失った俺の前に、幼なじみであり妻であるしおりは、かつての面影を消し、冷たい視線を向けていた。華やかな都心のマンション、豪華な暮らし、しかし心の距離は埋まらない。ALSの宣告と、戻らない過去。しおりの傍らには、見知らぬ男・昴が立つ。交わしたはずの約束は、現実の波に流されていく。あの日の夏の笑顔は、もう二度と戻らないのだろうか。
白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった
白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった
4.8
港区の夜景を背に、桐生司は愛する妻・理奈の心が遠ざかるのをただ静かに受け入れていた。初恋の人・仁科の目覚めによって揺らぐ夫婦の絆、家族の期待と冷たい視線、そして交差する過去と今。理奈との間に芽生えた新しい命さえも、すれ違いと誤解の中で失われていく。誰も本音を口にできず、沈黙だけが積もっていく日々。やがて司はすべてを手放し、新たな人生へと歩み出すが、失われたものの重さだけが胸に残る。もし、あの日の雨が止んでいたら、二人は違う未来を選べたのだろうか。
お年玉とギフトでつながる約束——都会の片隅で君ともう一度
お年玉とギフトでつながる約束——都会の片隅で君ともう一度
4.8
子どもの頃、何気なく交わした「大きくなったら結婚する」という約束。その言葉は、時を超え、都会の片隅で再びふたりを結びつける。見栄っ張りでお世辞ばかりの春斗と、冷静で優しさを隠し持つ小雪。お年玉やギフト、数字でしか示せない不器用な誠意と、すれ違いながらも少しずつ近づく距離。家族や猫たちに囲まれた静かな日々の中、ふたりの関係は少しずつ変化していく。約束の重み、過去の記憶、そして新しい命の気配。——この幸せは、本当に手に入れていいものなのだろうか。
雨音と錆色の家 消えた遺体と、十四歳の誕生日に残されたもの
雨音と錆色の家 消えた遺体と、十四歳の誕生日に残されたもの
4.9
川崎臨海の雨が打ちつけるバラックで、夕子と翔は互いの傷を抱えながら生きてきた。幼い頃から家族として寄り添う二人の静かな日々は、父・剛造の突然の帰還によって崩れ去る。暴力と貧困、家族の断絶、そして立ち退き料という現実の数字が、ささやかな希望と絶望を交錯させる。翔は父を殺し、夕子と金田はその遺体の処理を試みるが、血の跡と消えた遺体、そして警察の淡々とした追及が、彼らの過去と現在を静かに揺らす。小さなケーキ、冷たい風、そして家族の名残が、心に残る影となっていく。二人の未来に、ほんのわずかな光は射すのだろうか。
初雪の日から、白髪になるまで一緒にいよう――僕が“当て馬幼馴染”だった世界の果て
初雪の日から、白髪になるまで一緒にいよう――僕が“当て馬幼馴染”だった世界の果て
4.8
仙台の灰色の空と欅並木、凍える冬の街で、僕は幼なじみの美羽と二十年の季節を重ねてきた。物語の“当て馬幼馴染”として、彼女の心が主人公へ引き寄せられていくのを静かに見守るしかなかった。約束を破られた誕生日、冷たいケーキの甘さが胸に沈む。やがて僕はこの世界からログアウトを申請し、別れの準備を始める。思い出を辿り、出会いの場所を巡りながら、彼女との最後の初雪を迎える。消えていく記憶の中で、残されたのは静かな愛と痛みだけ。「初雪の日から、白髪になるまで一緒にいよう――」その言葉は、もう誰にも届かないのだろうか。
雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか
雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか
4.7
雨上がりの河川敷、私は妖怪として人間の世界を静かに見下ろしていた。弟子に宝珠を奪われ、最愛の人も失い、流れ着いた先で双葉という愚直な女と出会う。久我家の本邸に入り込む陰謀と、血筋に絡まる呪い、欲望と愛が絡み合い、誰もが自分の居場所を探し続ける。失われた魂、封じられた記憶、そして救いのない運命の中で、双葉は静かに自分の道を選んでいく。雨音と雷鳴の間に、誰の願いが叶うのだろうか。人も妖も、未練を抱えて生きていくしかないのかもしれない。
雨上がりの家を出て、私は私になる
雨上がりの家を出て、私は私になる
4.5
八年付き合った恋人に裏切られ、実家の冷たい家族と再び向き合うことになった美緒。子どもの頃から差別と孤独に耐え、愛を渇望し続けた彼女は、家族の中で自分だけが居場所を見つけられずにいた。偽物の彼氏との偶然の再会や、父との静かな絶縁を経て、長年縛られてきた関係から静かに解き放たれる。雨の町で、誰にも頼らず自分の足で歩き始めるとき、彼女の心に初めて静かな自由が訪れる。最後に残る問いは、「本当の愛や家族は、どこかに存在するのだろうか?」
十年後の妻は知らない私
十年後の妻は知らない私
5.0
卒業式の夜、勇気を振り絞り片思いの晴人に告白した詩織は、気がつけば十年後の自分――晴人の妻として目覚めていた。記憶もないまま大人になり、子供までいる現実に戸惑う詩織。過去と未来が交錯する中、彼の日記が二人の運命をつなぎ直す。夢と現実の狭間で、彼女は本当の愛を見つけ出せるのか。
千日の秘密と横浜の夜に、キラキラひかる約束を
千日の秘密と横浜の夜に、キラキラひかる約束を
4.8
共通テストが終わった春、約束していた横浜への小さな旅は、叶わぬ夢に変わった。三年間、秘密の恋を育んだ悟は、裏切りと別れの痛みに沈みながらも、卒業パーティーで交差する友人たちの思いに触れていく。誰にも言えなかった想い、届かなかった優しさ、すれ違いの中で見つめ直す自分自身。夜の海風とピアノの音色のなか、幼い日の記憶がふいに蘇る。あの時守られた“キラキラひかる”の歌声は、今も心に残っているのだろうか。
十年目の夜、捨てられた子猫のように
十年目の夜、捨てられた子猫のように
4.9
十年という歳月を共にした恋人が、ある夜に裏アカウントで自分への本音を吐露していたことを知った大和。湾岸マンションの夜景も、キャンドルディナーも、指輪も、全てが静かに崩れていく。年の差や社会的な壁を乗り越えようとした日々、幼い恋人・陸のわがままも、涙も、すべて抱きしめてきたはずだった。しかし、偽りの愛と、すれ違う孤独が積もり、二人は静かに別れを選ぶ。札幌の冬、東京の会議室、そして暗いビジネスパーティーのトイレ——再会のたびに残る痛みと、触れられない距離。最後に残ったのは、捨てられた子猫のような自分自身と、彼のいない朝の光だけだった。それでも、もう一度だけ彼を愛してもよかったのだろうか。