第5話:偽りの名医と亡き令嬢の影
夜が明けた。庭砂は白く、鶯が一声。
本家の朝会が終わった。人の足音が一度にやみ、空気が変わる。
久我司が自らやってきた。静かな影が、座敷の端に落ちる。
松島さんは昨夜から亜美を看病し、久我司に報告した。言葉の間に、疲労が滲む。
「朝に目覚め、意識もはっきりし、食事もとりました。その後また眠りました。」淡々と、必要事項だけが並ぶ。
久我司は頷き、無言だった。反応は小さく、意志は重い。
松島さんは私たちを振り返った。「女医よ、医師たちと診断書を話し合いなさい。」場の矢がこちらに向く。
双葉はすでに原稿を準備していたが、それでも冷や汗が噴き出た。紙の角で、指が白くなる。
私はそっと彼女を押し、「早く」と小声で言った。背中の支えは、時に一言で足りる。
双葉は深呼吸し、でたらめな診断書を提出した。紙が机に落ちる音は、小さいが重かった。
医師長は険しい顔で「精神疾患?」と聞いた。疑う目は、理解の前段階だ。
双葉は必死に弁明した。「精神疾患とは、狂気や愚鈍、歌や笑い、悲しみや涙、喜怒の発作……」言葉の糸を、必死で紡いだ。
「なるほど!」誰かの声が、空気を変えた。
「目から鱗だ!」安易な感嘆は、都合がいい。
双葉は呆れと安堵が一度に来る。
彼女は呆然と私を振り返った。私は無言で親指を立てた。嘘に必要なのは、味方の仕草だ。
松島さんはついに微笑んだ。「まさかスラムに名医がいるとは。司様も安心なさいますように。」笑みに、少しだけ柔らかい本音が混じる。
久我司は「数日様子を見て、さらに良くなったら蛇川家に行くといい」と言った。蛇の家へ向かう準備を、彼は淡々と整える。
松島さんは「蛇川夫人を直接本邸に呼ぶべき」と勧めた。遠いところへ行くより、近くに呼ぶほうが早い。
「お任せします。」司は短く、任せた。
松島さんは久我司に、亜美をもっと見舞うようにと勧めた。見舞いは薬にもなる、と彼女は知っている。
会話の中で亡き令嬢の話も出た。古い名前は、場の空気を一瞬止める。
「双葉も、司様が亜美を大切にしてくれることを願っていました。」言葉の刃が、誰かの心に刺さる。
私は双葉を一瞥した。彼女のまぶたの影に、諦めと覚悟が混ざっていた。
彼女は伏し目がちで、何を考えているのか分からなかった。言葉を出さないときの彼女は、最も複雑だ。
久我司は逃げるように、そそくさと去った。背中は速いのに、心は遅い。
松島さんはただため息をついた。ため息の重さは、誰にも拾えない。










