第4話:闇医者の針と狂気の診断書
だがその夜、亜美が急変した。夜の静けさが破れた。
私と双葉は緊急に呼び出された。廊下の灯りが、走る影に追いつけない。
寝室に入ると、昼間は昏睡していた亜美が別人のようになっていた。目の奥が黒く、笑いが裂けている。
ベッドから飛び降り、周囲の人々を襲い始めた。細い腕が、刃のように動いた。
か細い体なのに、六人の家人でも押さえきれない。力は不思議に、意志を上回る。
「亜美様、お怪我なさらぬよう!」叫びは願いであり、祈りでもある。
「どけ!」声は低く、鋭い。
亜美は家人の腕に噛みついた。血は赤く、恐れは無色だ。
だが家人は逃げもせず、血まみれになりながらもただ許しを乞うだけだった。忠誠は、時に愚かだ。
双葉は叫んだ。「何してるの!早く引き離して!」現実的な指示が、場の空気を絞る。
私は手を振った。空気が一瞬、静電気のように震えた。
さっきまで怪力だった亜美は、急に力が抜け、家人たちに押さえられた。見えない糸が、彼女の四肢に絡んだようだった。
現場は混乱しており、私に気付く者はいなかった。混乱は隠れ蓑だ。
「ベッドに押さえて!」
亜美はベッドに押さえつけられ、力は弱まったが、まだもがいていた。笑い声は途切れ途切れに続く。
口の中は血だらけで、足をばたつかせながら狂ったように笑った。笑いは涙よりも残酷だ。
「絶対に許さない。みんな死ぬ、みんな死ぬんだ!」言葉は呪詛の形を取る。
双葉もどうしていいか分からなかった。計算できない場面は、彼女の苦手だ。
私は彼女を押した。「適当に針を打って!」場数は、手を動かす強さになる。
双葉は信じられないという顔をした。嘘が得意でも、出たとこ勝負は嫌いだ。
「早く!亜美を押さえて何もしないわけにいかないでしょ?」時間は、容赦なく進む。
双葉は内心パニックだったはずだ。けれど、彼女は舞台に立てば役を演じる。
だが、彼女は演技が上手い。手の震えを隠し、針の角度を整えた。
近づいて、二本針を打った。呼吸の隙間に合わせて。
すると、さっきまで発狂していた亜美は急に動かなくなり、しばらくするとぐっすりと眠り始めた。眠りは、いちばんの薬だ。
双葉は呆然とした。針の効果に、自分でも驚いたのだろう。
家人たちも疲れ果て、床に座り込んだ。畳に落ちるため息が重い。
「あなたは……闇医者様ですか!」誰かがやっと、肩書きにすがった。
双葉は困惑しながらも、その肩書きにすがるしかなかった。
しばらくして、久我司の乳母・松島さんが駆けつけた。小走りの足音は、庭砂を強く踏む。
双葉は彼女を見ると、思わず興奮した。目がにわかに潤む。
私は足を伸ばして彼女を転ばせ、我に返らせた。冷静は、膝に痛みをくれる。
私は考え込んだ。場の空気の端に、古い噂の匂いが混じる。
松島さんの逸話はスラムにも広まっている。久我司の母が家を追われた際、彼女が司を連れて東へ逃げ、育て上げたのだという。生き延びる技術のある女の匂いがした。
時が巡り、司が当主となると、彼女も久我家の家政主任に昇格した。過去は肩書きになる。
双葉の様子から、二人はただ知り合いというだけでなく、深い絆があるようだ。目が交わるたび、古い記憶が揺れる。
松島さんは事情を聞き、双葉を別室に呼び出して尋ねた。座敷の空気が、少し冷えた。
「亜美の病状は?今後どう治療するつもり?」言葉は直球、目は試すようだ。
双葉は機転を利かせ、「病状は複雑なので、明日診断書を書いてご覧いただきます」と答えた。紙に逃げるのは、常套手段だ。
松島さんは、明日本家の医師に診断書を提出するようにと命じ、特に念を押した――
「司様は亜美を深く愛しておられる。治せなければ、この家からは二度と仕事を回しません。責任を取る覚悟で臨みなさい!」その声は、張り詰めた糸のように鋭かった。
帰る頃には夜も明けかけていた。庭の竹が、灰色の光に小さく揺れる。
双葉は部屋に入るなり、涙をこぼした。ここでだけは、感情を出すことを許した。
私は彼女を引っ張った。「まだ診断書を出さないといけないよ。」泣く時間は短いほうがいい。
双葉は一瞬で涙を引っ込めた。彼女は器用に感情を片付ける。
「実は亜美が何の病気か全く分からないの。」正直に言うほうが、次の嘘がうまくなる。
私は可笑しくなった。そんなの明らかじゃないか。匂いと風で、私には十分だ。
「どうするつもり?」紙の上に、彼女は何を書く。
双葉の目は決意に満ちていた。「適当にでっち上げる。」決意の中に、苦い笑いが混じる。
「……」私の沈黙は、承認の色だ。
何枚も紙を丸めた末、彼女は「精神疾患」と書いた。文字の黒は、逃げ道にもなる。










