雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか / 第3話:呪われた令嬢と冷たい当主
雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか

雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか

著者: 外村 慎二


第3話:呪われた令嬢と冷たい当主

翌日、私たちは無事に久我家の本邸に入り、蛇川亜美の部屋に案内された。畳の匂いが深く、香の煙が薄く漂っている。

中に入ると、濃厚な香の匂いが漂っていた。鼻腔に張り付く、寺で焚くような香木だ。たぶん沈香か伽羅、重く鼻にまとわりつく香りだ。

名のある寺から取り寄せたのだろう、香りの層が複雑だった。

見上げると、部屋内には様々な御札や法具が貼られ、陰陽師や僧侶のものが揃っていた。紙の白と墨の黒が、壁を縫い合わせている。

亜美は顔が紅潮し、息苦しそうで、昏睡している。唇は乾き、眉間は強く寄っていた。

侍女たちは「お気をつけて、亜美様のお体を傷つけぬように……」と警告していた。声は震え、手は恐れで固い。

突然、背後に足音がした。畳が一枚、低く鳴った。

双葉は振り返った。気配に敏い。

すると、黒い和服を纏った男が大股で入ってきた。布の揺れと一緒に、冷たい空気が流れ込む。

彼女の平静な目に、ついにわずかな動揺が走った。揺れは一瞬で、すぐに消えた。

その一瞬の眼差しには人間らしい感情が溢れていたが、すぐに消え、彼女は頭を下げて私と共に礼をした。礼の角度まで、彼女は正確だ。

久我司は彼女に気付くはずもなく、亜美の床に歩み寄った。視線は一点に絞られていた。

「礼は不要、早く亜美を診てくれ。」そう言い捨てた声には、氷のような冷たさがあった。

面白いのは、この当主の表情が、かつての愛妻に対するものとは正反対だったことだ。柔らかかった目が、今は刃のようだ。

目は冷えきっていた。凍った湖のような無表情。

双葉は気付かず、小声で「はい」と答えた。声は控えめに、体は素早く。

彼女は少し準備していたようで、脈を診て眉をひそめ、すぐに作り話を始めた。息の長さ、皮膚の色、舌の苔――いくつもの要素を即席の物語に編んだ。

要するに、亜美は情緒不安定で肝気鬱結、心神の不調が続き、長く眠れず……日本の漢方医が使うような言葉で、症状をまとめた。

色々言ったが、要は心の悩みで不眠になったということだ。簡単で曖昧、それでいて誰も否定できない結論。

いかにも適当な言い訳だった。けれど、この場で必要なのは「答え」より「落ち着き」だ。

幸い、久我司は咎めなかった。眉はわずかに動いただけ。

「治せるか?」短い質問に、重い期待を載せる。

双葉は口を開いた。喉が乾いている音がした。

私は先に答えた。「治せます。」声の芯だけ、少し強く。

久我司はようやく私に目を向けた。視線は冷たいままだが、確かに移った。

庶民出身のこの当主は、波乱の末に家督を継ぎ直し、愛妻を失った。今日の目は、どこにも寄り掛からない。

正直、彼の顔にはもはや人間らしい感情はほとんど見えない。感情は置いてきぼりにされ、職務だけが残っている。

彼は私を見ていたが、双葉は蒼白になった。彼女は私の調子に合わせるのが苦手だ。

私は三本指を立てて「闇医者なら治せます。たった……」

双葉は慌てて私の手を掴み、「三か月!三か月以内に、いえ、闇医者が必ず亜美様を元通りにします!」声に焦りが混じる。司の眉がぴくりと動いた。

久我司は眉をひそめた。期限は鎖だ。

双葉はすぐに「三日で効果が出ます!」と付け加えた。鎖を、糸に変えようとした。私の喉がひくりと鳴る。

久我司は考え、頷いた。「薬を使え。」許可は短く、重い。

こうして私たちは本邸に住むことになり、離れの部屋に案内された。畳の匂いが新しく、窓の外は竹が揺れていた。

双葉は冷や汗をかいていた。背中に冷たい線が走る。

案内役の家人を笑顔で見送った直後、私を殴りかかりそうな勢いで詰め寄った。手は震え、目は怒っている。

「紅ゆら、死にたいの?!本当に死にたいの?!」怒鳴り声は、壁にぶつかって跳ね返った。

私は笑った。笑いのほうが、怒りより楽だ。

「でも、本邸に残れたでしょ?」結果は、手段を曖昧にする。

双葉は眉をひそめた。「残れたのはいいけど、この亜美は……」言葉の先に、霧が立っている。

私は腰を下ろした。「彼女は妖怪に呪われている。」事実を、簡単に置いた。

「冗談はやめて。」彼女は現実主義者だ。

冗談じゃない。私の鼻は嘘をつかない。

「部屋の様子を見なかった?どこの令嬢があんな寝室を持っているの?」御札の多さは、恐れの多さだ。

双葉は「悪いことをしたからかも」と呟いた。彼女は人の悪と罰を、いつもまっすぐ結ぶ。

私は彼女を見た。まっすぐな線は、時に危険だ。

彼女は視線を逸らした。「この話は本邸で口にしないで。司はそういうのを信じないから。」言葉を慎むのも、生きる術だ。

久我司の母は呪詛の濡れ衣で家を追われ、司はこの手の話を忌み嫌うのだという。理屈で守る者は、呪いを嫌う。

分かった、言わないでおこう。口は武器にも毒にもなる。

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