第2話:久我家の門と死人と呼ばれた女
そうこうしているうちに、久我家の門の警備員の取調べに差し掛かった。瓦の影から涼しい声が落ちる。
彼女はすぐに緊張し、掲示板のプリントと情報屋の名を見せて警備員に訴えた。手の震えを袖で隠す。
警備員は疑わしげに彼女を見た。「スラムの女が本邸に来て運試しだと?」声の底に、見下しが沈殿している。
双葉は慌てて言った。「極秘の依頼で、身分を問わず闇医者を、と……」紙を指で叩き、文字に頼った。
「お引き取りください。」門は重く、人の心は冷たい。
私はじっと警備員を見つめ、魂を操る術を使った。軽い霧のように、彼の意識の表面を撫でる。
双葉はまだ食い下がる。「せめて取り次いでよ!」声の最後に震えが乗る。
警備員の態度は一変し、すぐに一歩下がって「申し訳ありませんでした」と言った。目の焦点がふっと変わった。
双葉は事態の急転に、言葉が追いつかない。
警備員は、門の警備室で待つようにと言い、報告後に久我司が呼ぶだろうと告げた。門の鍵の音が柔らかくなった。
双葉は疑わしげに「騙さないでよ」と言った。疑いは彼女の護身だ。
警備員は「そんなことはしません。報告しなければ家の命令に背くことになりますから」と慌てて答えた。命令の鎖が彼の足を縛っている。
双葉は渋々、門の警備室の片隅で私にたこ焼きを一皿奢り、自分はコンビニの菓子パンを水で流し込んだ。温度差のある食事は、彼女の性格そのものだ。
彼女は行き交う人々を見つめ、物思いに沈んでいた。街は忙しく、人の心は静かだ。
「何してるの?」私は爪で紙コップの縁を弾いた。
「一見、平和な街に見えるわね。」視界の平穏は、匂いの不穏を隠す。
都心の繁栄は霊障の影響を受けていない。灯りの多さが、影の深さを忘れさせる。
だが、郊外や河川敷のスラムでは人々は苦しんでいる。風一つでも、体温を奪う。
彼女が沈んでいると、突然誰かに腕を掴まれた。力は細いが、必死だ。
双葉は驚き、振り向くと、狩衣を少し着崩し、腰に小さな呪具袋をぶら下げた若い女の陰陽師だった。浅葱色の袴が、急ぎ足で音を立てる。
「あなたはもう死人よ、自分の場所に帰りなさい!」冷たい言葉を、熱い呼吸で吐いた。
双葉は驚愕した。「な、何を言ってるの!」言葉の足がもつれる。
その小陰陽師は険しい顔で彼女を掴み、もう一方の手で御札を抜こうとした。紙片から、乾いた清涼の匂いが立つ。
私は手を伸ばし、御札を押し戻した。指先で、風の流れを変えるように。
小陰陽師は呆然とした。「久遠の御札、なぜ……」目の奥が揺れた。
私は彼女を強引に引き寄せ、双葉に「これは私の知り合いで、冗談好きなの。ちょっと話してくる」と笑って言った。笑顔は、場を丸くする道具だ。
私は小陰陽師を門の内側にある人気のない庭の片隅へ連れて行った。ここは久我家の私有地、結界の内側。周囲には家人以外の人影もなく、警察沙汰になる心配もない。
久遠の御札は、私が妖道に堕ちる前の法具だった。神前の灯りの下で、誓いを立てていた頃の名残だ。
後に人間だった頃の門下の後輩に譲り、それがさらに下に伝わったのだ。紙一枚にも、系譜はある。
小陰陽師は修行が足りず、私が師匠の法具を操るのを見て、伝説の大師匠と勘違いした。目の前の違和感より、教本の文字を信じたのだ。
彼女は興奮し、なぜあの死人を庇うのかと聞いてきた。息が上ずって、言葉の順序が乱れる。
私は話を遮り、誰に命じられて来たのかと問うた。命令の源は、だいたい匂いでわかる。
青雲神社の弟子が俗世に出ることは稀だ。ましてや久遠の御札を持っているとは。紙の白さが、場違いだった。
彼女は素直に、久我家の執事・蛇川さんの命だと答えた。蛇の名を持つ者の命令は、だいたい曲がっている。
「この数十年は本来、平和な世であるべきなのに、妖怪どもが騒ぐから家の運気を奪われ、民は苦しんでいます!あなた様は……まさか、その……どうして私の妖退治を妨げるんですか!」正論のようで、穴だらけの叫びだ。
私は冷たく見下ろした。路地の影ごと、彼女を覆うように。
「彼女が誰で、どこから来て、何を経験したか知っているのか?」声を落とせば、重さが増す。
小陰陽師は呆然とした。「それが重要ですか?!彼女は死人なのに!」彼女の世界では、ラベルが全てなのだ。
私は笑い出した。感情より、可笑しみが勝った。
そして彼女の首を掴んだ。力は入れていない、ただ触れただけ。
「そ、その……あなた様は……」声が裏返る。
小陰陽師の目は恐怖でいっぱいだった。恐怖は、学びよりも早い。
私は血色の瞳を見せた。夜の獣の目に、昼の影を映した。
「主君に伝えろ。彼女に手を出せば、人間なら殺し、妖怪なら喰らい、神なら屠る。」言葉は、呪より鋭くできる。
そう言い残し、私は路地を大股で出た。足音は軽いが、影は重い。
人畜無害な顔に戻し、双葉のもとへ。笑う筋肉は覚えやすい。
「友達は?」
「急に腹痛で、路地裏で用を足してる。邪魔しないであげて。」適当な嘘は、場を静かにする。
双葉はやれやれと肩を落とす。
彼女は振り返ろうとしたが、私は止めた。裏は見ないほうが、表は綺麗だ。
「久我家で診る令嬢は、蛇川家の娘か?」
「ええ……蛇川家の娘よ。」ため息ひとつ分の重さで、言葉が落ちる。
ならば、以前決められていた本家の婚約者候補だ。緊張の綱は、長く張られたままだ。
東野双葉は本邸に入って半年で急死し、蛇川家は高僧や陰陽師を呼び、妖退治に奔走した。走り回るほど、真実は遠のく。










