第1話:奪われた宝珠と河川敷の女医
私は妖怪で、かつて自分の弟子だった小さな妖怪に毒を盛られ、私の宝珠――長年練り上げてきた妖力の核を奪われた。人の皮膚よりも薄い一枚の膜のように、積み重ねた力の中心が抜き取られる感覚は、今でも骨の髄に焼き付いている。
その小妖は人間の心を持ち、他人の身分を奪って久我家の本邸に入り込んだ。古い血筋の蔵に紛れ込むやり方は、妖よりも人間の狡猾さに近い。東京の下町で拾った偽りの名札を胸に、鎌倉へ向かう影は、やけに軽やかだった。
さらに、久我司は共に苦楽を分かち合った本来の婚約者を、荒川河川敷のスラムにまで落とした。紙切れ一枚で運命をひっくり返され、泥の匂いがする風の中へ、彼女の魂は投げ出されたのだ。
こうすれば自分が物語の主役になれると信じていたのだろう。見栄えの良い舞台、中心に立つための捏造された悲劇。人も妖も、主役の座が好きだ。
普通、妖怪は人間に同情しないものだ。私たちは季節のように、ただ巡り、ただ見過ごす。だが、心にささくれのように残る場面というのはある。
だが、一万年の修行で練り上げた私の宝珠を、男を奪うために使うとは……?万年かけて凝り固めた力を、恋だの愛だのに燃やすつもりかと、笑いも怒りも越えて、呆れが喉に引っかかった。
宝珠を犬にくれても、彼女にはやらない。少なくとも犬は誠実だ。欲に目がくらみ、道を捨てることはない。
そもそも、妖怪は人間を好きになることなどない。私たちは匂いを覚えるだけで、執着はしない。
ただし、東野双葉のように、心から私を養おうとする者なら別だ。あの女は、愚直で優しく、私の怠惰さえ許してきた。
その夜。街灯の明かりが雨の名残を照らしていた。
私は古いアパートで一日中寝転んでいた。彼女は診療に出かけ、帰ってきた時は魂が抜けたような顔をしていた。靴底には河川敷の泥が乾いて白い筋を描いている。
私は何気なく尋ねた。「治らなかったの?」いつも通り、枕元から顔だけ出して。
双葉は首を振った。「診せてくれなかったの。」肩の力が抜け、視線は畳の傷に落ちる。
昨年は季節が狂った。荒川沿いでは畑は枯れないのに、街に奇妙な倦怠が広がって、人は働いても身にならず、スラムでは急に仕事が消えた。空は青いのに、体だけが重く沈んだままだった。
今年の春耕に望みを託すしかないが、霊障はまだまだ続く。風に乗った怠さが人の骨を腐らせるように、意志を奪っていく。
役所の人間たちは見て見ぬふりをし、むしろ貧民を搾取するばかり。相談窓口は増えるのに、食卓には何も増えない。
明日どう生きるかも分からない。夜風の冷たさに、明日も冷たいのだろうと誰もが知っている。
彼女が診に行ったのは女の子のいる家だった。実際はただの風邪だった。鼻の先が赤く、手足が冷たいだけの子。
双葉は診察料を取らないと言ったが、家の主人はそれでも断った。受け取れば、恩の重さに押し潰されると分かっているからだ。
治ったところで、その子は体が弱く、養う金もない。病院には行けず、食事は菓子パンと水だけ――そんな暮らしでは、治療の意味が薄い。
一人に栄養を回せば、家族全員の生活費が足りなくなる。光熱費や家賃の支払いで精一杯、台所は空っぽだ。
だから治療は諦めたのだ。痛みよりも生活の逼迫のほうが速い。
生きられるかどうかは運次第。死ねばむしろ良い、とまで言う。重い言葉だが、彼らの口から、軽く飛び出ていく。
その家の女は泣き崩れ、死にそうなほどだった。泣く力が残っているのは、まだ生きたい気持ちがある証だ。
だが、主人も姑も心を動かさない。目の前の小さな命に背を向ける癖は、霊障の年に身につくのだ。
双葉は呟く。「どの家もこんなものだって。あの家の奥さんがこっそり私を呼んだの。」声は低く、怒りよりも疲れが混じっていた。
つまり、こうして体調を崩して衰弱する子供がたくさんいるということだ。数えることすら、誰ももうやめてしまった。
そして今年はますます増えるだろう。この淀みが晴れない限り。
私は何気なく言った。「霊障や乱世に遭えば、早く生まれ変わるのも悪くないさ。」軽口のつもりで、毒にも薬にもならない慰めを投げた。やば、ちょっと不用意だったか。
双葉は私を睨みつけた。黒目に火が灯ったみたいに。しまった、ちょっと言い過ぎたかも。
だが彼女は口論が苦手で、それ以上は何も言わなかった。唇を結び、深く息を吐いた。息が詰まるような沈黙。
その夜、彼女は寝返りを打ち続け、一晩中眠れなかった。布団の端が裏返り、畳の擦れる音が続いた。
翌朝、彼女は重大な決断をした――
「私、久我家の本邸に行く。」夜明け前の薄灰色の空に向かって、彼女は小さく宣言した。
双葉はくしゃくしゃのプリントを隠し持っていた。端は汗で柔らかくなっている。
そこには、久我家の令嬢が重病で、医者も手をこまねいているという噂と、裏社会の掲示板に流れた「腕の立つ闇の医者を極秘で探している」という依頼の抜粋が書き留められていた。紙面は無機質だが、行間には切迫した匂いがした。
実はこの情報、彼女はずっと隠していたのだが、ついに取り出したのだ。迷いを畳の隙間に押し込んで、表に出した。
彼女はこの数日貯めた小銭を全て私に残し、申し訳なさそうに言った。掌に乗る銀色の重みは、彼女の生活の重さでもある。
「このお金で一か月くらいは持つはず。もし一か月経っても私が帰らなかったら……」
彼女は言葉を切った。喉に硬い石が落ちたみたいに。
「河川敷の東端の松島さんに、仕事を紹介してもらいなさい。あるいは支援団体や居場所を探してもらいなさい。とにかく、頼れる人を頼りなさい。」口にするたびに、自分の胸を刺す助言だ。
彼女がこう言うのは、私がアパート一番の怠け者だからだ。私の怠け癖は、私自身よりも彼女の心配を増やす。
双葉は、お人好しで愚直だ。だから、私のような面倒を見続ける。
この時、彼女は私を見つめ、罪悪感に満ちた目をしていた。自分が帰らなければ、私が飢え死にするのではと心配しているのだ。そんな馬鹿な、と笑って見せたかったが、彼女の気持ちに水を差すのも違う。
私は「うん」とだけ答えた。彼女が安心できる音だけを置いておく。
双葉は少し呆れた様子だった。「ちっとも寂しがらないのね!」言葉は軽口でも、目は本気だ。
荷物をまとめ終えると、私に体を大事にするよう何度も言い聞かせ、私が相手にしないとようやく出発した。玄関の鍵が鳴る音は、いつもより長く響いた。
私は彼女の背中を見送りながら、思案にふけった。背中は小さいが、背負っているものは大きい。
実のところ、彼女は私のことを心配する必要などない。私は人間ではなく、妖怪、しかも大妖なのだから。飢えは、私には寄り添わない。
彼女と初めて出会ったのは、私が弟子の小妖に宝珠を奪われ、荒川に捨てられた日だった。川面は濁り、雨粒が跳ねていた。
その日は大雨で、水底で眠っていた私が流されてきた。眠りは深く、夢は重かった。
双葉は私を溺れた人間だと思い、命がけで川に飛び込んで助けてくれた。冷たい川で、彼女の体温だけが温かかった。
当時、彼女はまだホームレスの女で、五か月の身重だった。薄いコートの下に、守るべき小さな命を抱えていた。
それは極めて愚かな決断だった。荒川は水勢が激しく、私も深く眠っていたので、彼女も溺れかけていた。命は一つでも、川は一度に多く奪う。
幸いにも、彼女は水中で流産した。その失われた血の匂いで私は目を覚ました。悲しみの色は、妖にとっては目覚めの色でもある。
結局、私が彼女を岸に連れて上がったのだ。濡れた髪の先を絞り、彼女の肩に古い毛布をかけた。
こうして、どちらが「命の恩人」か、私たちはよく口論した。助けた・助けられた、その境の曖昧さが、妙に楽しかった。
彼女が可哀想に思えて、少しばかり小銭を出してやり、私はまず裏切り者の弟子に落とし前をつけに行こうとした。恩を返し、仇を討つ――順番はいつも、私の気分次第だ。
だが、彼女は私を呼び止めた。泥のついた手で、袖を掴んだ。
「もうどこにも行かないで、私が養ってあげる。」ためらいのない声だった。
私は自分が家を失った元令嬢だと嘘をついたが、彼女は信じた。滑稽な話でも、信じる人がいれば物語になる。
彼女は自分の経験から、私のような若く美しい女性が外で暮らすのは危険だと考えたのだ。夜の河川敷に立てば、風だけが優しいわけじゃない。
「私は少し手に職があるし、二人くらいなら養える。」その言葉には、ささやかな自負と過去の傷痕が混じっていた。
その時初めて気付いた。彼女の体には私の弟子・蛇川亜美の妖気がある。甘い匂いの中に、舌に刺さる毒の香りが混じっていた。
泥にまみれた身体の奥に、不釣り合いなほど澄んだ光が見えた。ボロ切れをまとっても、その立ち居振る舞いは隠せない。
彼女は魂を入れ替えられている。誰かが、彼女の人生の中心を無造作に取り出し、別の器に押し込んだのだ。
面白そうだったので、私は「いいよ」と答えた。退屈よりは混沌を選ぶ。
こうして彼女は私を河川敷のスラムに連れてきて、診療や薬草採りで生計を立てるようになった。乾いた土から、わずかな草の匂いを拾い集める暮らし。
徐々に毎日満腹に食べられるようになった。満腹という言葉が、この街では贅沢の響きを持っている。
正直に言えば、彼女は普段はケチだが、私の面倒はよく見てくれた。食器の並べ方まで、私の癖に合わせるほどに。
ただ、あまりにも温厚すぎる。怒るべき場面でも、彼女は笑ってしまう。
この世の中で生きるのはこんなに大変なのに、私はアパートでぐうたらしていても、彼女は何も言わなかった。怠け者には、優しさが一番の餌だ。
翌朝、夜明け前に、私は鎌倉・久我家本邸の表門前で埃まみれの双葉を待っていた。門の瓦は古く、苔の匂いが雨上がりに濃い。
彼女は私を見て驚いた。「なんでここにいるの?!」目がまん丸になった。
まさか、ほぼ徹夜で一晩歩き通してきたとは……彼女の靴底は薄く、足はもう悲鳴を上げているはずだ。
私は「タクシー呼んだ」と言った。そう、私は便利さには弱い。
双葉は無言で呆れた。風より冷たい視線を投げてきた。
「どうせ久我家に入るのだから、あのお金ももう必要ないし。」無駄を嫌うのは、私の美徳でも怠惰でもある。
双葉は怒った。「誰があんたを本邸に連れていくって言ったの!早く帰りなさい!」怒ると語尾が強くなる、彼女の癖だ。
私は断った。首を横に一度だけ振る。
「あなたがいないと、誰が私を養ってくれるの?」冗談半分、甘え半分。
「松島さんに良い縁談を頼んであるでしょ!」彼女は本気で未来の段取りを作る人だ。
「ご飯一杯のために、あんな微妙な男たちと結婚するなんて絶対に嫌よ。」微妙な男の匂いは、窓からでも漂ってくる。
彼女はさらに怒り、「人はまず生きなきゃダメなのよ!」と怒鳴った。正論は、時に斧より鋭い。
私は笑って彼女を見た。怒っている顔も好きだ。
彼女はますます怒った。「何笑ってるの!叱ってるのよ!」怒鳴り声が門の瓦に跳ね返る。
「一緒に久我家に行って面白いことを見てみたいだけよ。」退屈を嫌う妖の本心は、だいたいこんなものだ。
「何が面白いことよ!そんなのあるわけないでしょ!」人間は、予想外を嫌う。
もちろんある。大騒ぎになるに決まっている。血筋と権利と呪いが絡まれば、静かなほうがおかしい。
実は、彼女が魂を入れ替えられていることはもう分かっていた。見ればわかる、匂えばわかる。
彼女の本当の姿は、久我司が愛した正妻・東野双葉だ。名の響きに、春の風の匂いがまだ残っている。
久我司は彼女と河川敷で共に育ち、深い絆で結ばれていた。久我家の当主となった後、幹部たちと争いながらも、彼女を本家の婚約者に立てた。泥の中の花を、堂の上に上げたのだ。
しかし一夜にして、彼女の魂は体から引き剥がされ、粗末で醜いホームレスの体に押し込められた。あまりに雑な仕事、あまりに残酷な遊び。
しかもその時、父親も分からぬ子を身ごもっていた。名もなく、未来もなく。
これほどの波乱を経て、彼女はスラムでひっそりと生きてきた。人目を避け、風に当たり、夜に溶けて。
今、ついに久我家に入る。通りすがりの犬ですら立ち止まるだろう、ましてや私が見逃すはずがない。面白い匂いは、遠くからでも嗅ぎ分けられる。
彼女は罵り疲れた。怒りは汗になる。
私は懐から道中で買った甘い大福を取り出して食べた。粉の白さが指に移る。
双葉は声も出せないほど呆れている。
「私は苦労が苦手なの。もし一緒に久我家で楽をさせてくれないなら、夜の街で働いた方がまだ楽だわ。」本気半分、挑発半分。
その瞬間、双葉の叫び声が天に響き渡った。
「紅ゆら!!!」門の木戸がびくりと震えた気がした。
私はまた笑ってしまった。彼女が大声を出すのも、珍しい。
何度も言うが、双葉は愚直なお人好しだ。私が本当に夜の街に落ちるのではと心配し、仕方なく私を助手として連れていくことにした。ため息の後、受け入れるのが彼女の優しさだ。
まず彼女は、「これからは本名で呼ばず、“闇医者”と呼ぶこと」と釘を刺した。名前は鎧にも凶器にもなるから。
そして、久我家で新しい道を探してあげると言う。石畳の先に、柔らかい土の道があると信じて。
「その時は絶対に騒がないでよ!」指を立てて、念押し。
「うん。」頷きだけは、真面目に。
「何の道か聞かないの?」
「その時に考えればいいわ。」私の計画は、いつもその場で色を変える。
「紅ゆら、あなた本当に仏になるつもり?」彼女の目に、半分皮肉、半分期待。










