第5話:本陣の女と総司令の逆鱗
その夜、私は征十郎と口論になった。言葉は火花になり、ぶつかった。
「お嬢は今や一文無し、失うものなどないだろう?」
彼の言い分は鋭い。
「総司令のような孤独な人には敵わないわ。」
肩をすくめる。彼の孤独はその目に宿っている。
「だが、私は昔より多くを手に入れた。お嬢の入り婿だった頃は、肉一つ食べさせてもらえなかった。」
拗ねたような一言。
「うん、私の入り婿の中で一番食いしん坊だったのはあなただわ。」
思わず笑いが漏れる。昔話は少しだけ甘い。
……
彼は唇を噛む。
口論のうちに私は眠気に負けて寝てしまった。緊張がほどけると、眠りが急に来る。
明日には首を斬られると思っていたのに、意外にもぐっすり眠れた。皮肉なほど、安心してしまった。
ここ数年で一番安らかな眠りだった。体の芯が温まり、心が静まる。
ぼんやりと、懐かしい気配が近づいてきた。足音は柔らかい。
夢うつつに、抑えた嗚咽が聞こえた。まるで小動物のような悲しい声。耳元に掠れる。
きっと聞き間違いだ。だが心臓が反応した。
だが首筋に温かい息がかかり、私は無意識に手を伸ばし、首筋を何かにすり寄せられた。体が覚えているぬくもりだ。
「……お嬢。」
震える囁きが、薄い夢を濃くする。
なんてリアルな夢なんだろう。目を開けるのが怖い。
翌朝、本陣には私一人しかいなかった。静けさが広がる。
間もなく、外から足音と会話が聞こえてきた。足音のリズムが二人分。
一人は早口で語尾が上がり、若者らしい声。もう一人はゆっくりとした低い声で、年配のようだ。声が陣幕を撫でる。
若い方が言う。
「総司令に判断してもらおうぜ。なんで今回はお前が総大将なんだよ!戦がないと体がうずうずするんだ!」
鼻息が荒い。
年配の方が言う。
「この戦は難しい。総司令はお前のためを思ってのことだ。」
落ち着いた声が、重さを帯びている。
二人は話しながら陣幕の前まで来たが、門番に止められた。槍の先がカチリと鳴る。
総司令は不在です。お二方、また後ほどお越しください。
門番の声は硬い。
若い方が言う。
「嘘だ!中に人がいるのは見えたぞ!総司令は俺に会いたくないのか?!」
声が裏返る。
すぐに幕を開けて、私は驚いて顔を上げた。布が光を吸う。
陣幕の入口に二人の武将がいた。
若い将校は叫んだ。
「総司令も落ちぶれたな!前は女なんか寄せつけなかったのに、今は女を囲ってるとは!」
言葉が過ぎるぞ、と年配の将軍が小さくたしなめた。
年配の方は私に頷いた。
「久しぶりだな、叶嬢。」
落ち着いた視線が少しだけ柔らかい。
まさに九条将軍、雅子の父だった。目の下の影が深い。
私は立ち上がり礼をした。膝を折る動きが重い。
若い将校は傲慢な表情で言う。
「お前は誰だ、なぜ総司令の陣幕にいる?」
顎が上がる。
九条将軍は驚きもせず、「無礼を働くな、この方は――」と言いかけた時、外から影が飛び込んできた。風が切れる音がした。
若い将校は蹴り飛ばされて地面に転がった。砂埃が舞う。
「誰が蹴った――総司令?」
若い将校は呆然とした。目を見開く。
蹴ったのは征十郎だった。動きは迷いがない。
彼は私の前に立ち、背中越しでも怒りが伝わってくる。背中が熱い壁になる。
若い将校はみじめに地面に座り、征十郎は厳しく言った。
「誰が私の本陣を勝手に開けていいと言った?」
低い声――それだけで場の空気が凍った。
「違います、中に人がいるのを見て……」
言い訳は弱く、音が頼りない。
征十郎はまだ彼の足を踏みつけ、さらに力を込めた。若い将校は叫び声をあげかけて押し殺した。歯を食いしばる音が聞こえる。
征十郎は冷笑した。
「私は今や何をしてもお前に説明しなければならないのか?」
氷のように冷たい目。ぞっとする輝き。
若い将校は恐怖でいっぱいで、何か言いかけて飲み込んだ。最後に「総司令お許しを!相馬烈が出過ぎました」とだけ言った。肩が震える。
九条将軍も慌てて膝をついて取り成す。ひざまずく音が柔らかい。
征十郎は九条将軍を一瞥し、かつて天下に名を馳せた大将軍がその一瞥で冷や汗を流す。視線の重さが、言葉より強い。
彼の言葉は相馬将校に向けられているようで、目は九条将軍を見据えていた。
「ふん。何事も頭を使え、人に利用されていることすら分からないとは。」
冷たい忠告が、刃の背で打つように響く。
九条将軍は黙り込んだ。沈黙の色が濃い。
征十郎は相馬将校から足を離し、衣の裾を払って私の隣に座った。布がさっと音を立てる。
今の彼は喜怒哀楽の読めない総司令。おそろしく静かな顔つきだ、と私は思った。
私はしみじみと思った。もう昔の彼じゃない。牙を隠していた男が、今は噛みつく覚悟の猛者になった――そんな言葉が胸に浮かぶ。
大げさな比喩だと笑ったはずなのに、今は現実の姿と重なって見える。
彼の声は冷たかった。
「早く失せろ。」
短く、刃のような言葉。
相馬将校は頭を下げて感謝し、九条将軍に支えられて去っていった。背中が小さく見える。
征十郎の目の冷たさはまだ消えず、私を見た時、思わず半歩後ずさりした――怒号よりも沈黙が怖い。
こんな征十郎は初めてだった。距離の測り方が分からない。
やがて彼の目は柔らかくなり、手を差し出した。掌が静かに開く。
「お嬢、共に食事を。」
差し伸べられた手は温かく、言い方もやさしい。
その食事は針のむしろのようだった。座るだけで背筋が硬くなる。
今日首を斬ると言いながら、なかなか手を下さず、今日もまた見たことのない珍味が並んでいた。色鮮やかな皿が並び、目の贅沢が続く。
彼は次々と料理を取り分け、私の茶碗は小山のようになり、少し誇らしげに言う。
「これもあれも、お嬢が食べたことのないものだ。気に入れば、また作らせよう。」
嬉々とした声が癪に障るほど優しい。
私は恐れと驚きで、また食べ過ぎてしまった。お腹が温かく重くなる。
食後、彼は丁寧に私の手を拭いてくれた。指先の拭い方が昔のまま。
まるで昔、叶家の旧屋敷で入り婿だった頃のように。過去がふっと蘇る。
私は耐えきれず、目を閉じて叫んだ。
「征十郎、早く決着をつけて!」
声は少し震えた。
まるで屠殺される子羊のような気分だった。追い詰められた心が、口を急かす。
美味しいものを食べさせられ、いつ斬られるか分からない。緊張が胃まで届く。
いっそ、食べ終わったらすぐに斬ってくれた方がましだ。待つのが一番怖い。
総司令になるとやはり違う。喜怒哀楽が激しく、人を手のひらで弄ぶのが上手い。表も裏も、全部計算に見える。
さっきの九条将軍への圧力もそうだった。圧力に意味を重ねるのが彼のやり方だ。
今度は私にも皮肉たっぷりに接し、斬られなくても怖くて死にそうだ。心臓が小さく跳ねる。
だが彼は私の手を取って本陣を出た。指が絡む。
「今日は天気が悪いから斬らない。外に出て消化しよう。」
言葉は冗談めいている。
私は外の晴天を見上げ、何も言えなかった。青がどこまでも広がる。
消化どころではなかったが、征十郎に手を引かれ無理やり連れ出された。足元が急ぐ。
道すがら、将士たちは皆礼をし、好奇心を隠しきれない者もいれば、度胸のある者はからかうような目をしていた。征十郎は堂々と、全く隠そうとしなかった。見せつけることに意味があるのだろう。
途中、相馬将校に出会うと、彼はその場で固まり、こんな光景は見たことがないらしく、周囲に「本当に総司令か?あれが総司令なのか?信じられない!」と尋ね回っていた。声が裏返っている。
さらに雅子にも会い、彼女はハンカチを握りつぶしそうになりながら「女狐め!あの方のお心を惑わして!なぜ総司令は彼女にあんなに優しいの?私にはしてくれないのに!理解できないけど、すごくショック……」と涙ぐんでいた。嫉妬の色は濃い。
さらにいろんな人間に出会い、なかなか賑やかだった。視線が背中に刺さる。
最後は私の方が恥ずかしくなり、
「手を離して、皆が見てるわ」
と言った。顔が熱い。
征十郎はさらに強く手を握った。
「お嬢、何を恐れる?今やこの軍中は私の言う通りだ。」
誇らしげな声が、耳に熱い。
目立ちすぎ!視線が刺さる。心の中で叫ぶ。
しかも彼は得意げだ!鼻で笑いたくなるほど。
引っ張られながら、私たちは軍の穀倉の近くまで来た。木の匂いと穀物の匂いが混ざる。
私は運ばれてくる穀物車を見て、また昔のことを思い出した。車輪の軋みは、商いの音だ。
私は彼に尋ねた。
「知ってる?あなたが九条将軍と一緒に行った時、軍の兵糧は全部私から買ったのよ。」
自分の誇りを押し付けるように言う。
彼は不機嫌そうに答えた。
「知らないはずがない。私は軍で命がけで戦っていたが、お前が入り婿を変えたという話も何度も聞いた。」
鼻で笑う。
私は驚いた。
「誰が言ったの?」
心臓がひとつ跳ねた。
「九条将軍だ。毎回、まるで現場にいたかのように話してくる!」
皮肉な笑いが口元に浮かぶ。
九条将軍は何のためにそんな話を?意図が読めない。
彼は私の肩に手を置き、ぐっと私の顔を向けさせ、歯ぎしりしながら言った。
「その時、私は絶対に死ねないと思った。必ず立派になって戻り、お前に俺の凄さを見せてやる。お前の後の入り婿たちよりも何倍も凄いと!お前を後悔させてやる!」
目が熱く燃える。
私は彼の真剣な目を見て呆然とし、思わず笑ってしまった。可笑しさと愛しさが混ざった笑いだ。
総司令にまでなったのに、なんて子供っぽい。子どもの誓いを、そのまま両肩に背負っている。
「じゃあ、今は後悔してる?」
軽く問う。
「していない。」
即答。
「……お前は冷たい女だな、昔私を売り飛ばしたのに、今も後悔していないのか?」
彼の声が少し震える。
「うん、だからいつ私を斬るつもり?」
冗談と本気が半々だ。
彼はやけくそ気味に私を抱きしめ、少し拗ねた声で耳元にささやいた。
「私は一度もお前を斬ると言ったことはない。お前が勝手に勘違いしただけだ。私はただ、立派になって戻り、お前に俺の力を見せて、今度は俺が守る番だと思っていたんだ。」
息が耳をくすぐる。
私は本当に驚いた。目が見開く。
彼を押し返し、顔を上げて見つめた。視線が絡む。
「本当に、私があの時あなたを売ったとしても、あなたは私を恨まないの?」
喉の奥が痛む。
彼も私を見つめ、もう目の中の想いを隠さなかった。
「一度もない。」
即座に言う。
「お嬢は私の唯一の家族だ。」
その言葉は何度も聞いたはずなのに、今夜は特別だ。
「人を見る目があると言われるが、私は世の冷たさを知っているから、誰が本当に自分に優しいか分かる。」
声が静かに響く。
「お嬢だけが本当に私に優しくしてくれた。死にかけた時も、お嬢の存在が生きる希望だった。」
瞳が濡れている。
そう言ってまた嗚咽し、顔をそむけて静かに訴えた。肩が震える。
私はもう涙をこらえきれなかった。視界が滲み、鼻の奥が痛む。
同時に、あの時の経緯を彼に打ち明けた。長い間、胸にしまってきた言葉だ。
確かに私は征十郎を九条将軍に売った。言葉の選びようのない事実。
征十郎はただの入り婿だったが、天賦の力を持っていた。戦の才は目に見えていた。
九条将軍の軍には策略に長けた軍師がいて、兵法書の一句だのを引きながら「底に潜む龍がいる」と持ち上げた。叶家の旧屋敷に人材が眠っている、と推測したのだ。占いめいた物言いに、人心は動く。
九条将軍はそれで征十郎の存在を知った。噂は道を作る。
当時は連年の飢饉で世は乱れ、各地で英雄が蜂起していた。戦の気配が土に染みている。
私は回船問屋で、頼れるのは一族だけだったが、小さな宗族など義勇軍には到底敵わない。力の差は歴然だった。
私の回船問屋は乱世の中で狙われる獲物だった。米の匂いは、餓えた矢を呼ぶ。
九条将軍は私に取引を持ちかけ、市価で私の全ての穀物を買い取り、叶家の安全を保障し、征十郎を軍に連れて行くというものだった。条件は甘くなく、強い。
これは公正な取引ではなかった。彼が提示した市価は乱世前のものだった。現実と理屈の綱引き。
だが他に選択肢はなかった。彼に売れば金になるが、他に売れば一銭にもならないかもしれない。選べる道は一本だけだった。
飢饉の時代、米を持ち続けるのも災いだった。米俵は、標的の印だ。
私は当時、征十郎に尋ねた。
「征十郎、何かやりたいことはある?」
指先が震えていた。
彼は「征十郎は無用です。お嬢が悩むのを見ても何もできません。征十郎も功を立てて、お嬢を守りたい」と答えた。目が遠くを見ていた。
彼は威風堂々とした将軍たちを羨ましげに見ていた。肩の広さに憧れるように。
「私も大将軍になれたら、お嬢を守れるのに!」
と。言葉は真っ直ぐ。
彼が未練を残すことは分かっていた。残せば腐る。それなら――
だから私は、最も決然とした方法で彼を追い出した。好きな人ができたと嘘をつき、彼を徹底的に辱めた。彼が戻らぬように。
案の定、征十郎は一言も言わず、荷物を背負って去っていった。背中に、何も言葉を残さない人だった。
その後、彼の消息を聞いた時には、すでに連戦連勝の大将軍となっていた。噂は誇らしく、そして遠い。
……
征十郎は私を抱きしめ、離そうとしなかった。腕の力が強い。
私の首筋に温かい涙が落ちた。肌を滑る塩の熱。
彼の声は総司令の面影などなく、ただの寂しげな少年のようだった。
「でも私は後悔している。本当に後悔している!大将軍なんて少しも良くない、痛くてたまらなかった。何度も死にかけた。ある時、矢で射抜かれ、矢じりが肉に引っかかって、肉をえぐって抜かなければならなかった。私はまだ新兵で、誰も助けてくれず、死にそうになった。高熱で何日も苦しんだ。でもお嬢のことを思うと、死ぬのが惜しくて……」
言葉が途切れ途切れに落ちる。
私は胸が痛み、怒りも込み上げてきた。
「九条将軍があなたを連れて行ったのに、どうして助けてくれなかったの?」
歯ぎしりが混じる。
征十郎は鼻で笑った。
「あの老いぼれは私なんて気にしない。あの頃、私はただの新兵。実際に兵を率いて戦える者だけが彼の目に留まるんだ。」
冷笑の影が濃い。
私は腹が立って彼を抱きしめ、罵った。
「だから何でも安売りしちゃいけないのよ!米を安く売っても大事にされない!あなたを売った時も高くふっかけなかったから大事にされなかった!大損だわ!」
感情と理屈が混ざると、口は意地悪になる。
征十郎は鼻で笑った。
「お嬢は商売のことばかりだな。高値なら売るのか?」
むっ。挑発がうまい。
もちろん売らない!胸の内で強く否定する。
彼が大将軍になりたいと言わなければ、絶対に売らなかった。あれは、彼の望みだったからだ。










