第1話:追い出した入り婿が総司令に
私が家から追い出した入り婿が、帝都・桜京の軍事政権を率いる総司令になった。子どもの頃から商家の娘として気丈に生きてきた私だが、あの乱世の最中に――彼を軍に渡した夜のことは、胸の奥にずっと沈めている。彼を生かすための選択だったはずなのに、今も罪悪感の鎖が重い。
侍女の小梅が夜通しで荷物をまとめてくれる。息も荒く、慌てる手が震えていた。
「お嬢様、早く逃げましょう!前に旦那様は昼間あなたに叱られ、夜は膝枕で足の手当までさせられていました。今戻ってきたら、きっと復讐されますよ!」
小梅の声は必死で、私の袖をきゅっと掴む。灯りの少ない廊下に、焦りの匂いが満ちた。
だが、門を出た途端、がっしりした胸板にぶつかった。ぶつかった瞬間の衝撃で鼻を押さえ、涙目で顔を上げると、私の元入り婿――桐島征十郎が門口に立ち、見下ろしながら問う。
「当主はどこへ行く?」
この低い声に、背筋が凍るような既視感が走る。あの頃の彼とは違う、鋭い気配。
――私の命はこれまでか!この脳裏の叫びは、足元をさらうように恐怖を広げた。喉が乾いて、息が詰まる。
彼は今や帝都・桜京の軍事政権を率いる総司令なのに、真夜中に荒れ果てた叶家の門前で何をしているのだろう。土埃をまとった門柱にもたれ、まるで泥だらけの大根みたい。いや、野良犬みたいに荒っぽい……そんな比喩で自分を落ち着かせようとしているのが情けない。
私は慌てて膝を滑らせて彼の足にしがみつき、泣き叫んだ。
「征十郎、あなたが総司令になったと聞いて、今まさに帝都へ行こうとしていたの!」
声が裏返り、掌が彼の袴をぎゅっと掴む。必死の言葉に、自分でも愚かさを感じた。
征十郎は冷笑して突き放し、…それから、低い声で問いかける。手の力は容赦がない。
「その日、お前が私を家から追い出した時、今日のことを想像したか?」
その一言で、胸の奥の古傷が疼く。彼の眼差しは夜目にも鋭く、容赦がない。
もちろん想像なんてしていなかった。出世するとは思っていたが、まさかここまでとは。総司令になるなど、夢にも描かなかった。私自身の浅はかさを恨むしかない。
彼が一声かけると、暗がりから無数の兵士が現れ、手にした提灯を灯し、荒れ果てた叶家の旧屋敷を昼のように明るく照らした。灯りの海がさっと広がり、庭の荒れた草むらまで浮かび上がる。眩しい。現実が容赦ない。
征十郎は黒衣に豪華な装束、金糸の縁取り、威風堂々として実に立派だった。肩に羽織る黒が、夜に溶けるほど深く、光の縁が彼の輪郭を際立たせる。若き日の少年のあどけなさは、もうどこにもない。
私は粗末な麻の服に地味な手拭い、顔色も悪く痩せこけて、まるでみすぼらしい。かつての店の暖簾が風に揺れていた頃の自分は、もう遠い。夜風が肌に痛く、みじめさが骨に染みた。
小梅がこっそり耳打ちしてきた。
「こんなにたくさんの灯り、久しぶりに見ました。旦那様、本当に出世されましたね!」
彼女の瞳がきらきらする。畏れと羨望がないまぜになった輝き。
そう、普段は私たち主従、灯油一つも惜しんで点けなかったのに。灯りを絶って、米の一粒を惜しみ、夜は早々に寝るしかなかった。明るさは贅沢の象徴だ。
征十郎は今や栄達の身。凍てついた夜の空気さえ、彼の周りだけ温度が違う気がする。
私はもう、かつての回船問屋の裕福なお嬢様ではなかった。着物の綻びが、過去の栄華を皮肉る。指先の荒れが、畑仕事の現実を物語っていた。
征十郎に連れられて軍営に住むことになった。抵抗する気力もなく、ただ従うほかなかった。軍の鼓の響きが遠くに震え、規律の匂いが鼻を刺す。
本陣には灯りがともされ、机の上には乱世では見かけない貴重な食べ物が並ぶ。湯気が立ち、香りが甘く鼻孔をくすぐる。まるで別世界に迷い込んだようだ。
征十郎は机の前にどっかりと座り、少し誇らしげに私に座るよう促す。
「当主は幼い頃から裕福だったが、これらを食べたことはあるか?俺はケチな男ではない。遠慮はいらん、好きなだけ食え。」
声にはからかいと、妙な甘さが混じっていた。
私は机の端に座り、顔を上げると征十郎の整った眉目が見えた。光が彼の横顔をなぞり、影が頬を引き締める。美しい、と思ってしまった自分が悔しい。
だが心の中では、やはりこの人は根に持つタイプだと思う。善意で出した皿も、私には見せつけの道具に見えた。
征十郎が叶家に入り婿したばかりの頃、一度に三切れの豚の角煮を食べて、私はさんざん叱った。その時、彼はしょんぼりと頭を垂れて「もう食べません、当主、どうか私を追い出さないで」と哀願したものだ。思い出すと胸が痛い。あれは本当は、彼の体を案じた叱責だったのに。
その後、一緒に食事をしても肉料理には箸を伸ばさず、とても肩身が狭そうだった。箸先が皿の隅で止まりがちで、私の視線を恐れていた。
今や出世して、これは見せつけに来たのだろう。私に、彼の手に入れたものを理解させるために。
だが、食べられるものは食べるべきだ!私は遠慮なく箸を動かし始めた。せめて胃袋だけは裏切らない。匂いに負けてしまうのが人の常だ。
だが食べているうちに、涙が止まらなくなり、鼻水まで流しながら、それでも必死に頬張り続けた。塩気が混じって、味がぼやける。けれど口は止まらない。
征十郎は一瞬うろたえた。
「当主、なぜ泣く?」
椀を持つ手がわずかに揺れる。
「征十郎、あなたも少しは情があるのね。死ぬ前に満腹にさせてくれるなんて。最後のお願い――痛いのは嫌。斬るなら腕の立つ兵士に介錯させて、刃はよく切れるものにして。」
冗談めかした言い回しで、心臓の震えをごまかす。
征十郎は呆然とし、すぐに激怒して茶碗をひっくり返した。
「いつ私がお前を斬ると言った?」
茶碗が卓に当たって乾いた音を響かせ、米粒が散った。
私は涙を拭い、おそるおそる尋ねる。
「毒酒か、それとも晒し幕?」
口が勝手に怯えを並べた。
使用人が幕を払って、さらに肉料理を運んできた。湯気に混じって、香がふわりと舞う。場違いなほど贅沢な匂いだ。
征十郎は険しい顔で茶碗を拾い、米粒を一つ一つ戻し、私の前にどんと置いた。
「全部食べろ、食べ過ぎて死んでしまえ!」
言葉とは裏腹に、戻した米の丁寧さが昔の彼を思い出させた。
私は涙ながらにご飯を二杯平らげた。喉を通るたびに、胸のつかえが少しずつ揺らぐ。
幸い料理は上品で量も多くなく、すべて食べきることができた。量の加減が絶妙で、腹が落ち着いていく。
征十郎は呆然と私の食べっぷりを見て、しばらくしてやっと一言。
「当主、食欲が増したな。」
皮肉と驚愕が同居した声音。
私は恥ずかしげに笑う。
「久しぶりに満腹になりました、総司令、お許しを。」
胃を撫でて、肩の力を抜く。
乱世の後、飢饉が続き、私は落ちぶれた回船問屋の娘となり、親族や奉公人もほとんどが生計を立てに外へ出て行った。かつて賑わった土間の声は消え、軒先の鈴も鳴らない。
満腹でお腹をさすりながら立ち上がり、彼に尋ねた。
「今日、私を斬るの?斬らないなら消化してくるわ。」
半ば本気、半ば強がり。
「行け行け!」
手をひらひらと振る仕草が乱暴で、どこか照れくさい。
私はうなずき外へ向かう。足元が少し軽い。空気の冷たさに、頬がしゃんとした。
「戻れ!」
鋭い声が背中を捕まえた。
私は恨めしげに振り返る。
「どうしても今日斬るの?」
涙の痕がまだ頬に温かい。
彼は歯の隙間から怒りをにじませて言った。
「軍中には禁足地が多い、私が連れて行く。」
言いながらも、手は私の袖をやさしく引く。
征十郎は一応総司令だ。歩幅が大きく、私は小走りでついていく。
私を脅しているうちに、呼ばれてどこかへ行ってしまった。取り残された空気が、少し間抜けで、少しほっとする。
先ほど軍中を歩いて消化している時、彼はまず軍律場を指さした。
「あの木杭が並んでいるのが軍律場だ。明日お前をそこに括りつけて、軍律どおりに吟味する。隣の晒し場の白布に血が飛ぶぞ――薄情者には特別に厳しくな。」
脅し文句は派手だが、その目は揺れていた。
私は震え上がった。想像だけで膝が笑う。
消化どころか、恐怖でしゃっくりが止まらなくなった。ひっ、ひっ、と自分でも情けない音が漏れる。
彼はさらに城門の楼上を指さす。
「お前が死んだら城門の楼に吊るしてやる。通る者は皆、唾を吐きかけて薄情者だと罵るだろう!」
言葉は容赦ないが、声の端に怒り以外のものが混じる。
私は涙を流しながら聞いていた。頬を伝う熱が、夜気で冷えた。
最後にはしゃっくりしながら彼の腕を引き、
「征十郎――ひっ――もう一つお願い――ひっ。死ぬ前に小梅にも一度満腹にさせてあげて。彼女も長いこと肉を食べていないの。」
情けなさと優しさが同居した願いだ。
征十郎は呆れたように言う。
「食わせる!お前が死んだら彼女に宴を開いてやる、肉もたっぷりだ!」
口調は荒いのに、約束は具体的で優しい。
怒りに満ちた征十郎は呼ばれて去っていき、私は一人でぶらついていた。誰もいない回廊に、蝋の匂いがかすかに残る。










