第1話:旧華族育ちの嫁と義実家の洗礼
結婚して最初の年、夫・佐伯健太と一緒に佐伯家(北関東の地方都市)へ帰省し、大晦日の親族食事会に参加した。冬の空っ風が肌に刺す。駅から車で移動するあいだも、町の空気はどこか張り詰めていた。年越し前特有のせわしなさに、よそ者を見る冷ややかな目が混じる。胸の奥がざわざわと落ち着かない。小さな不安の芽が、じわりと顔を出す。
私が席に着こうとしたその時、姑・佐伯富子が私の腕をぐいっと引き止めた。爪が軽く食い込み、いつもより力が強い。
「うちにはね、昔からの作法があるのよ。新しいお嫁さんは、親戚の集まりでは座らずに立って気を利かせるのが当たり前」「家族のそばで給仕して、自分は食卓に着かないの。それが良妻の務めだし、そういう姿勢が家の格を上げるの」
口ぶりは柔らかいのに、その目は意志の一点だけを固く押しつけてくる。
その場の会話がぴたりと止まった。個室の障子の向こうで店員が小走りに通る気配も消え、箸の触れ合う音すら途切れる。親戚のおばさんたちがみんな私に注目する。肩越しに刺さるような視線が集中し、空気が一段固くなった。全員が私の返答を待っていた。
私は少し困った顔でスマホを取り出した。息を整え、声を落ち着かせる。
心の中で言葉の順序を組み立てる。「しきたりと言えば、私は旧華族・公家の家系で、うちにも百年以上続く伝統があるんです。大晦日や正月は、年始の挨拶やお屠蘇の盃の受け渡し、主賓挨拶や乾杯の音頭の順序、席次の優先権など、礼法がとても厳格なんです。ですから、今夜の年末の挨拶も、まず私がご挨拶させていただいて、その後に皆さんに順にお願いしたいと思います」——そう告げる段取りだけを、胸の内で固めた。
私は冗談ではなく事実としてそう決めていた。年始の挨拶や作法の順序は、こちらで進行する——実際に口にするのは、しかるべき場が整ってからだ。
うちは規則が多い家だったので、私は小さい頃から何事もきちんと守る性格になった。母が何度も「今回は本気になりすぎないように」と念を押してくれていたから、最初から戸籍謄本や家系図の写真を見せるのはやめていた。証拠を突きつける前に、言葉の段階で止められるならその方が丸い——そう思っていた。
両親は共働きで忙しく、私の面倒は祖母が見てくれた。祖母は自分の祖先が旧華族の分家だと自慢していて、家の中のルールは細かかった。鎌倉の祖母の家は古い町家で、柱時計の音が時を刻むたびに、湯呑みの置き場所から正座の角度、襖の開閉の手順まで、細則が身体に染み込んでいった。たとえば「湯呑みは右手で、畳の目に沿って置きなさい」とか、「襖は音を立てずに閉めるのよ」とか、祖母の口癖が今も耳に残っている。その日の服装から湯呑みの置き場所まで、すべて決まっていた。「久我山の子は背中で嘘をつかない」——祖母の決め台詞が、いつも締めに響いた。
最初は反抗もしたけど、結局は叱られてしまうので、従うしかなかった。背筋を伸ばすのを怠ればすぐに見つかり、小言とともに「久我山の子は背中で嘘をつかない」と矯正される。大きくなってから、祖母の厳しさは家柄云々とは関係なく、ただ単に男尊女卑で私を気に入らなかっただけだと気づいた。そう気づいた瞬間の冷たさも、今もどこかに残っている。
それでも、私は徹底的にルールを守る癖が染みついてしまった。誰かが私に新しいルールを押し付けようとすると、私は必ず一字一句守ってみせる。旧家の名に恥じないように。守ることでしか、この家で呼吸する方法がなかったからだ。
ただ、祖母は年を取って記憶力が悪く、さっき決めたルールをすぐに変えてしまう。そこで、祖母のルールを完璧に守るため、私は生活日記を書き始めた。自分のための記録ではなく、祖母に提示するための記録——それもルールだけを抽出した記録だ。
日記には感情や天気は一切書かず、祖母が決めたルールだけを記録した。罫線の隙間を埋めるように箇条書きで、日時、場所、誰の前での発言かまで細かく。祖母が急にルールを変えた時、日時や場所、祖母の表情や言動まで書き留めてあったので、言い逃れできなかった。記憶より記録——祖母にとっても、私にとっても、それが唯一の公平だった。
やがて、ある夜中の三時。私が五回目の起床を促したとき、八十を超える祖母は私の熱心さに感動して泣き出し、両親に電話して「年金を全部出すから、誰か仕事を辞めて私の面倒を見てほしい」と懇願した。頬のしわが揺れ、電話越しに混じる嗚咽が、長年の堅い殻を初めて柔らかくした瞬間だった。「玲華は本当に律儀な子だねえ」と、祖母がしみじみ呟いたのを覚えている。
結局私は祖母の家を離れたが、細かく記録する習慣だけは残った。私の中では、生活の軸を支える大黒柱のように座り続けている。
大人になり、周囲の友人たちが次々に結婚し、LINEグループの話題も姑との関係が中心になった。初義実家での洗礼や、親族の圧、地方の独特な距離感——スタンプの裏にため息が隠れているのが透けて見えた。
ある友人が聞いた。「もし結婚して初めて義実家に帰省したとき、姑が食事の席で急にしきたりを押し付けてきたら、どうする?」。彼女の声は軽く笑っていたが、内容は重く湿っていた。
私は一秒も考えずに答えた。「もちろん完璧に実行するよ」。ためらいがないのは、私にとってそれが一番安全な道だからだ。
私は全く心配していなかった。祖母の家で鍛えられていたから、どんな家のルールでも対応できる。ルールは守ればいい。ただし条件がある——相手にも同じだけの覚悟を払ってもらうこと。
でもまさか、友人との他愛ない会話が現実になるとは思わなかった。言霊は軽いのに、現実は具体的に足音を立てて近づいてくるものだ。










