白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった

白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった

著者: 広瀬 みく


第4話: 妊娠の告白と最後の条件

仁科は低く慰めた。「怒るなよ、体に悪い。理奈、あんな役立たずのために怒る必要はない。彼は六年間、君の家で居候してただけだ。」

「でも……」

「理奈の家の会社のことは、これからは俺が取引先として支援する。理奈の父に話を通して、仁科グループとしての発注を増やし、銀行にも口を利いてやる。そんな俺と、何の後ろ盾もない彼、理奈の父さんはどっちを信じると思う?」

「彼は私の夫よ……」

「能力も背景もない役立たずだ。理奈、気をつけて。あとで理奈の父の承認を取って経理に同行しよう。彼がこっそりお金を持ち出さないようにね……」

二人の声は遠ざかっていった。廊下の曲がり角に吸い込まれるように。

俺はただ苦笑し、哀しみを覚えた。笑いは、痛みの蓋だ。

理奈ときっぱり別れようと決意したが、思いがけず彼女はしつこく食い下がった。足音を追って、俺の前に立ちはだかる。

かつて心の奥にしまった忘れられない人が、今や涙を浮かべ、細い指で俺の袖をつかむ。指先は震えていた。

「司、本当に私をいらないの?」

俺の荷物を彼女が取り上げ、怒りをぶつけることもできなかった。投げ捨てるべき言葉が、喉で固まった。

「無視しないで、説明できるの。昨夜は海人の気分が沈んでいたから、山で星を見に付き合ったの。その後また具合が悪くなって、看病のために同じ部屋に泊まっただけ。」

「司、お願い、話を聞いて。」

彼女は優しく囁く。涙で濡れた声は、昔の理奈に似ていた。

俺は低く言った。「さっき見た君の首の赤い痕は、どう説明する?」

理奈は目を見開き、まつげが揺れ、一瞬動揺したが、すぐに「それで怒ってるの?」と強く言った。こちらの傷に気付いていない口調だった。

「うん。」

「蚊に刺されたのよ!山のふもとのホテルは蚊が多いから、刺されただけ。見て、本当にキスマークじゃない。」

彼女は両手で俺の腕を抱き、必死に弁解した。「何もなかった、本当に。調べてもいい、司、調べていいから。」

俺は半信半疑だった。疑いは消えず、信じる根拠もなかった。

理奈は頬を赤らめ、俺の手を自分の腹に当てさせた。温もりが、皮膚越しに伝わる。

「もう怒らないで、赤ちゃんも一緒に怒っちゃうから。」

俺は呆然とした。「赤ちゃん?」

「そうよ、私たちの子。もう二ヶ月になるの。今朝検査したの。司、妊娠したの、行かないで。」

この世に俺ほど情けない男はいないだろう。たった一言で、すべての怒りが沈んでいく。

理奈の優しい言葉に溺れ、彼女が語る三人家族の未来に、もう一歩も動けなくなった。心がまるごと手のひらに乗せられたようだった。

桐生家の二十年、俺はロボットのように扱われ、訓練されてきた。自分の意志よりも、命令の方が重かった。

その頃は、七年後に自分の子どもを持つことなど想像もしていなかった。想像する余地が、どこにもなかった。

俺は理奈の髪を優しく撫でた。「仁科と縁を切れば、俺は行かない。」それが条件であり、唯一の望みだった。

理奈は逡巡の末、うなずいた。乾いた唇が、微かに震えた。

彼女は優しく、しっかりと「司、あなたは私にとって一番大事」と言った。言葉だけを信じるには、まだ救いが残っていた。

あなたへのおすすめ

雨の日に失われた約束と、記憶の彼方で
雨の日に失われた約束と、記憶の彼方で
4.8
雨音が静かに響く夜、私はかつて救ったはずの彼女と、すれ違い続けていた。結婚という約束のもとで隣り合う日々も、元主人公の帰還をきっかけに、次第に心の距離が広がっていく。信じたい気持ちと、消えない疑念。思い出も、愛も、記憶の波に飲まれていく中で、私はこの世界に残る意味を見失ってしまった。すべてを忘れてしまう前に、本当に伝えたかったことは何だったのだろう。二人の始まりと終わりは、雨の中に溶けてしまったのかもしれない。
初雪の日から、白髪になるまで一緒にいよう――僕が“当て馬幼馴染”だった世界の果て
初雪の日から、白髪になるまで一緒にいよう――僕が“当て馬幼馴染”だった世界の果て
4.8
仙台の灰色の空と欅並木、凍える冬の街で、僕は幼なじみの美羽と二十年の季節を重ねてきた。物語の“当て馬幼馴染”として、彼女の心が主人公へ引き寄せられていくのを静かに見守るしかなかった。約束を破られた誕生日、冷たいケーキの甘さが胸に沈む。やがて僕はこの世界からログアウトを申請し、別れの準備を始める。思い出を辿り、出会いの場所を巡りながら、彼女との最後の初雪を迎える。消えていく記憶の中で、残されたのは静かな愛と痛みだけ。「初雪の日から、白髪になるまで一緒にいよう――」その言葉は、もう誰にも届かないのだろうか。
十年分の空白と、約束の夏が遠くなる
十年分の空白と、約束の夏が遠くなる
4.7
十年分の記憶を失った俺の前に、幼なじみであり妻であるしおりは、かつての面影を消し、冷たい視線を向けていた。華やかな都心のマンション、豪華な暮らし、しかし心の距離は埋まらない。ALSの宣告と、戻らない過去。しおりの傍らには、見知らぬ男・昴が立つ。交わしたはずの約束は、現実の波に流されていく。あの日の夏の笑顔は、もう二度と戻らないのだろうか。
白いバラが咲くとき、あなたに会えたなら
白いバラが咲くとき、あなたに会えたなら
4.9
十年にわたり互いに傷つけ合い、すれ違い続けた夫婦――伊織と絵里。東京の乾いた冬の空の下、ふたりは離婚を決意し、それぞれの孤独と向き合うことになる。病を抱えた伊織は故郷へ帰り、静かに人生の終わりを受け入れようとするが、絵里は過去と後悔に縛られながらも、彼のもとを訪れ続ける。やがて、季節がめぐる中でふたりの間に残されたものは、言葉にならない想いと、白いバラの花束だけだった。 あの日の約束も、もう二度と取り戻せないのだろうか。
十年後の妻は知らない私
十年後の妻は知らない私
5.0
卒業式の夜、勇気を振り絞り片思いの晴人に告白した詩織は、気がつけば十年後の自分――晴人の妻として目覚めていた。記憶もないまま大人になり、子供までいる現実に戸惑う詩織。過去と未来が交錯する中、彼の日記が二人の運命をつなぎ直す。夢と現実の狭間で、彼女は本当の愛を見つけ出せるのか。
雨音と錆色の家 消えた遺体と、十四歳の誕生日に残されたもの
雨音と錆色の家 消えた遺体と、十四歳の誕生日に残されたもの
4.9
川崎臨海の雨が打ちつけるバラックで、夕子と翔は互いの傷を抱えながら生きてきた。幼い頃から家族として寄り添う二人の静かな日々は、父・剛造の突然の帰還によって崩れ去る。暴力と貧困、家族の断絶、そして立ち退き料という現実の数字が、ささやかな希望と絶望を交錯させる。翔は父を殺し、夕子と金田はその遺体の処理を試みるが、血の跡と消えた遺体、そして警察の淡々とした追及が、彼らの過去と現在を静かに揺らす。小さなケーキ、冷たい風、そして家族の名残が、心に残る影となっていく。二人の未来に、ほんのわずかな光は射すのだろうか。
雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか
雨と雷の間で、魂はどこへ還るのか
4.7
雨上がりの河川敷、私は妖怪として人間の世界を静かに見下ろしていた。弟子に宝珠を奪われ、最愛の人も失い、流れ着いた先で双葉という愚直な女と出会う。久我家の本邸に入り込む陰謀と、血筋に絡まる呪い、欲望と愛が絡み合い、誰もが自分の居場所を探し続ける。失われた魂、封じられた記憶、そして救いのない運命の中で、双葉は静かに自分の道を選んでいく。雨音と雷鳴の間に、誰の願いが叶うのだろうか。人も妖も、未練を抱えて生きていくしかないのかもしれない。
雨上がりの家を出て、私は私になる
雨上がりの家を出て、私は私になる
4.5
八年付き合った恋人に裏切られ、実家の冷たい家族と再び向き合うことになった美緒。子どもの頃から差別と孤独に耐え、愛を渇望し続けた彼女は、家族の中で自分だけが居場所を見つけられずにいた。偽物の彼氏との偶然の再会や、父との静かな絶縁を経て、長年縛られてきた関係から静かに解き放たれる。雨の町で、誰にも頼らず自分の足で歩き始めるとき、彼女の心に初めて静かな自由が訪れる。最後に残る問いは、「本当の愛や家族は、どこかに存在するのだろうか?」
雪解けの輪郭に、僕はもう家族を呼ばない
雪解けの輪郭に、僕はもう家族を呼ばない
4.5
雪の降る東北の町で事故に遭い、家族の冷たさに人生を奪われた晴樹は、二度目の人生を与えられる。今度こそ優しさを捨て、冷静な論理で家族の運命に立ち向かうことを決意した。配信という新たな武器で家族の本性を世にさらし、かつて自分が味わった絶望を静かに返していく。季節が巡り、因果が静かに収束していく中、晴樹は雪解けのような自由を手に入れる。家族の物語は、もう彼の人生の輪の外側で静かに終わろうとしていた。 それでも、あの雪の記憶は本当に消える日が来るのだろうか。
凌雲橋のほとり、消えぬ魂と約束の夜
凌雲橋のほとり、消えぬ魂と約束の夜
4.9
霞が関地下の異能者行政「高天原」で働く神代 蓮は、三年前の祝賀会でかつての仲間四人と再会した。西域遠征を経て戻った彼らは、かつての面影を失い、それぞれが異なる痛みと秘密を抱えていた。葛城の精神の謎、猿渡の失われた感情、猪熊の静かな死、沙川の慟哭——すべては霊山会と特務機関、そして見えざる上層部の策謀に絡め取られてゆく。心の奥に残る疑念と嫉妬、別れと再会の記憶。組織と己の間で揺れる蓮は、仲間とともに運命に抗い、最後にはそれぞれの選択を静かに受け止めていく。月明かりの下、すべてが終わったはずの夜に、再び小さな灯りが揺れる——それは本当に終わりなのだろうか。