白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった / 第2話: 嘲笑う家政婦と軽井沢の証拠
白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった

白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった

著者: 広瀬 みく


第2話: 嘲笑う家政婦と軽井沢の証拠

その時、冷たい笑い声が響いた。足音とともに、家の空気が少しだけざらつく。

和江さん――相沢家に長年仕えている古参のお手伝いさんで、義母の側近のような存在だ――が、ダイニングの出入口に立っていた。手にはいつものお盆だけで、物音ひとつ立てず、ただじっと俺を見下ろしている。年配特有の厳しい目つきで、丁寧な笑みの奥に、あからさまな軽蔑を隠そうともしない。

「……旦那様、そろそろお食事、お下げしてもよろしいでしょうか?」和江さんは、わざとらしく小さく溜息をつきながら言った。「奥様は今夜もお戻りになられないそうで。お一人分だけ温め直しても、もったいないですしねぇ。」言葉遣いは丁寧なのに、じわりと刺さる。

俺は冷たく見返した。ここで視線を逸らせば、何もかも認めたことになる。

普段なら、こういう相手に言い返す気も起きない。無駄な言葉は、ただ疲れるだけだ。

でも、今日は我慢ならなかった。「家のことにまで、お手伝いさんがそんな含みのある言い方をする権利があるのか?」できるだけ平静を装って返す。

和江さんは一瞬だけ目を丸くし、それからわずかに口元をゆがめた。「まあ、失礼いたしました。婿養子の旦那様に、つい余計なことを申し上げてしまいましたわ。」語気は少し強くなったが、表面上の礼儀だけは崩さない。「立場って、難しいものですねぇ。」

婿養子、婿養子、婿養子――その肩書きは、何度も繰り返されるほどに人を縛る。

正直、最初は気にしてなかった。でも、相沢家で六年も過ごせば、否応なく非難の的になっていた。ここでは肩書きが本質より重い。

もう、話す気にもなれなかった。泥の上で足掻いても、結局は泥だ。

だが和江さんは、俺が怖気づいたとでも思ったのか、さらに一歩踏み込んできた。

「そのうち、お嬢様に離婚を切り出されるやろな。主人面してても、離婚したら月給二十万の仕事も見つからへんよ。私よりみじめになるんちゃう?」

誰もが理奈が俺と離婚すると思っていた。家の空気は、最初からその方向に流れていた。

誰もが桐生司は相沢家に寄生するだけの役立たずだと思っていた。口には出さなくても、目線が全てを物語っていた。

――笑わせる。喉の奥で乾いた笑いが漏れた。

俺は相沢アパレルのオフィスに一晩中こもった。机の上の書類は山積みで、夜景は鏡のように冷たかった。

理奈からの連絡は一度もなく、帰宅もしなかった。スマホの画面は真っ暗なまま、通知音だけが空しく響いた。

興信所から送られてきた写真には、理奈と仁科が軽井沢のグランピング場で星を眺め、深夜には麓のホテルへ向かう姿が映っていた。火のそばで肩を寄せ合う二人の影まで、鮮明だった。

興信所が医療関係者やSNSの目撃情報まで押さえてきて、どのルートから見ても同じ結論にしかならず、俺は現実として受け止めるしかなかった。

夜明け前、俺は理奈が泊まるホテルへ向かった。冷えた朝の空気が、頬に刺さる。

ホテルの前では、彼女を迎えに行こうとすら思っていた。まだ何かが守られていると、信じたかった。

フロントで部屋番号を尋ねると、「個人情報ですのでお答えできません」とだけ返された。だがほどなく興信所からチェックイン時の写真や目撃情報が届き、理奈と仁科が実質同じ部屋に泊まっていたことを知った。

興信所の担当者は、同情の眼差しを向けてきた。「昨夜はホテルに入れなかったけど、まあ想像はつくよ。男女二人きりで深夜……奥さんが二部屋取ると思ってたのか?」その声は、優しさと現実の両方を含んでいた。

胸が締め付けられるように痛む。手のひらが冷えて、指先に力が入らない。

そう、俺は二部屋取ると信じていた。どんなに理奈でも、最低限の一線は守ると。

理奈が部屋のドアを開けたとき、驚きと動揺がその可憐な顔に走った。眠れない夜の痕跡が、瞼に滲んでいた。

彼女は俺の名を呼び、何か説明しようとした。言葉の前に、目が揺れていた。

「司、私……」

「君と仁科、昨夜同じベッドで寝たのか?」

俺は唇を固く結び、拳を握りしめ、部屋にいる男を殴りに行くのを必死で抑えた。理性は、紙一重だった。

裏切られた怒りと焦燥、悲しみが俺を飲み込む。声に出せば壊れるものが多すぎた。

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