白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった / 第1話: 港区の婿養子と裏切りの電話
白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった

白いワンピースの記憶が消えるまで、雨は止まなかった

著者: 広瀬 みく


第1話: 港区の婿養子と裏切りの電話

俺は東京・港区の中堅アパレル企業、相沢家の箱入り娘・理奈と結婚して六年目だった。でも彼女は、俺を捨てて忘れられない初恋の男――仁科海人のもとへ走っていった。港区の夜景の中で、俺は黙ってその現実を呑み込んだ。

誰もが「貧乏な男が相沢家に婿入りできてラッキーだった」と口を揃えて笑っていた。親族の集まりでも、社員の休憩室でも、同じ噂がそこかしこで囁かれていた。

でも、あいつらは何も知らない。実は俺の家の規模や影響力は、相沢家なんて比べ物にならないほど大きい。ただ、俺が黙っていただけだ。話せば壊れるものがあると分かっていたから。

理奈はまた、療養中の仁科海人を見舞いに港区の病院へ行った。白い廊下に消毒液の匂いが漂う。最近はほとんど毎日、そこにいる。

仁科が意識を取り戻してから三ヶ月、理奈の俺への態度はどんどん冷たくなっていった。彼が目覚めたことで、理奈の心の奥にしまっていた過去まで呼び戻されたのだろう。

無理もない――そう思えるほど、二人の背景はまるでパズルのピースみたいにぴったり重なっていた。

仁科は生まれつきエリートで、理奈は港区のお嬢様。育ちも教育も同じで、人に見られることが当たり前の世界で、ずっと「お似合い」と言われ続けてきた。

まさに理想のカップル。もし七年前に仁科が事故で昏睡しなければ、俺みたいな貧乏男が理奈と結婚できるはずもなかった。あの偶然がすべてを変えたんだ。

相沢家で過ごした六年間、両親だけじゃなく、家政婦にまで見下されていた。冷たい視線、棘のある言葉、食卓に流れる重たい沈黙。

俺はただ黙々と働き、耐えてきた。理奈が好きだったからこそ、耐えられた。情けない自分を夜な夜な笑うこともあったけど、それでも離れられなかった。

本当に、好きだった。言葉にしたら安っぽいけど、俺の生活の隙間という隙間は、全部彼女の存在で埋まっていた。

七年前のあの大雨の夜、俺は桐生家を逃げ出してボロボロだった。そんな俺に傘を差し、傷の手当てをして、半月も面倒を見てくれたのが理奈だった。白いワンピースと、温かいスープの匂い――今でもはっきり思い出せる。

最近、あの雨の夜の夢をよく見る。雨粒が街灯に砕ける音、濡れたアスファルトの光、その上に重なる彼女の優しい声。

あの優しかった理奈は、どんどん遠ざかっていく。手を伸ばせば届きそうなのに、指先でいつも空を掴んでしまう。

「司、今夜は帰れないの。海人が頭痛で、私がそばにいてあげないと……」

理奈の柔らかな声が電話越しに響く。窓の外には港区の夜景。なのに、その声だけが妙に近く感じた。

俺はこれまでずっと理奈を甘やかしてきた。でも、さすがに今回は我慢できなかった。喉まで出かかった言葉を何度も飲み込んできたけど、今回は違う。

言いかけたその時、理奈がさらに優しい声で続けた。けれど、その奥には譲らない強さがあった。

「彼、目覚めたばかりで、私のことしか覚えていないの。司、私と彼は長年の仲なの、放っておけない。」

「じゃあ、俺も一緒に付き添うよ。」

「い、いいのよ!」

理奈は異様に強く反応した。反射的な拒絶。そこには、俺が踏み込んではいけない境界線がはっきりと引かれていた。

気まずい沈黙が流れる。通話の向こうから微かな機械音がして、お互いの呼吸だけが残る。

「海人はあなたのことを好ましく思っていないわ。司、知ってるでしょ?私たちは幼馴染で、本来なら結婚していたはずなの。彼はあなたが私を奪ったと思っているの、司……」

申し訳なさそうな囁きも、俺の胸に湧き上がる怒りは鎮まらなかった。謝罪の形をしているけど、実際は「決定事項」を伝える声だったからだ。

つい問い詰めてしまう。「つまり、俺が君を奪ったってことか?」

「違う……」

「俺は浮気相手なのか?」

「もちろん違う!」

「じゃあ、今夜は帰ってきてくれ。理奈、俺は君の夫だ。自分の妻が初恋の相手と一晩中同じ部屋で過ごすなんて、受け入れられない。」優しく言おうとしたのに、声が自然と強くなってしまう。

「無理よ、司。彼を置いてはいけないの。」

理奈が言い終わると同時に、電話の向こうから弱々しい男の声が聞こえた。理奈はすぐに応じ、俺への「さよなら」はなかった。

彼女は俺に「さよなら」すら言わず、電話を切った。電子音が短く響き、リビングの時計の針の音がやけに大きく聞こえた。

俺は携帯を手に、リビングで呆然と立ち尽くした。テーブルの上の湯気はとっくに消え、窓の外の灯りだけが揺れていた。

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