第2話:一億円と最後の家
絵里は無表情で離婚届をめくる。グラス越しに彼女を見つめた。彼女は今も美しい。あの頃、私の家の前に立っていた少女のままだ。髪の揺れ方まで、昔の冬の匂いを連れてくる。
「今度は何を企んでるの?」彼女は警戒の目を向ける。
私はため息をついた。「この家だけ欲しい。他は全部お前にやる。共同資産も全部放棄する。見てわからないか?」
これまで私が欲しがりすぎたから、急にこう言い出して彼女は不審に思ったのだろう。
それもそうだ。女一人、金があったほうがいい。
この部屋は私たちの新居だった。とにかく、他の男と一緒にここで暮らしてほしくなかった。私は性格が悪いから、彼女が他の男と仲良くするのが許せない。
それに、大した金にならなくても、売った金で墓地を買えばいい。生きている家を、死後の墓に換える。手ぶらで来て、手ぶらで去る。それでいい。生きているうちに使い切れない温度は、雪の中で土へ返す。
絵里は慎重に何度も協議書を読み返し、ようやく言った。「私の弁護士にもう一度作り直させる。家はあなたに。そのうえで一億円渡すわ。これで完全に清算よ」
私は眉を上げた。彼女は太っ腹だ。一億円で十年の関係を簡単に買い取るつもりか。紙切れの上で、時間を値段に変える達人だ。
「お前の弁護士?俺の弁護士を信じないなら、お前の弁護士を信じろと?」
気が抜けて、声を和らげた。「まあいい、同意するよ」
彼女は協議書を持ってドアを出ていく。「明日、私の助手が協議書を持ってくるから、すぐにサインして」
彼女はこの日をずっと待っていたのだろう。きっと今夜にも弁護士たちを呼び出して、私が何か仕掛けていないか会議するに違いない。
私は肩をすくめて「分かった、好きにしろ。早いほどいい」と言った。
彼女はまだ疑わしげに私を見て、条件を付け加えた。「お金を受け取ったら、東京にはもう住まないで。お互い自分の人生を生きましょう」
胸の奥がまた苦くなった。私は彼女を外に押し出し、ドアを閉めた。もう顔も見たくなかった。静かな玄関に、閉まる音が乾いて響いた。
絵里の助手はさすが高給取りだ。協議書を手渡しながら、丁寧に「長瀬さん」と呼んできた。
「うん」
私と絵里の不仲は会社中に知れ渡っている。淳は彼女に弁当を届けては、わざと私に見せつける。絵里も本当に淳を会社に入れて、私の助手にした。
だが長くは続かず、淳はすぐ家に戻った。絵里は離婚を本気で考え始めた。
私はもう会社に行かなくなり、「長瀬さん」と呼ぶ者もほとんどいない。目の前の青年だけが唯一だった。港区のオフィスの乾いた空調の匂いとも、徐々に縁が切れていく。
私は協議書を開き、東京で過ごす最後の夜にサインした。「長瀬さん、もう一度ご確認を」
「もういい、見ることなんてない」
私は笑って協議書を渡した。「絵里さんに伝えてくれ。来週、区役所で。遅刻しないように」
私の最後の時間を無駄にしたくなかった。










