港区と下町の境界で、罵倒と涙を分け合う私たち / 第1話: 毒舌御曹司と三億五千万
港区と下町の境界で、罵倒と涙を分け合う私たち

港区と下町の境界で、罵倒と涙を分け合う私たち

著者: 金子 奈々


第1話: 毒舌御曹司と三億五千万

私は西園寺グループの御曹司と体が入れ替わってしまった。まさか港区と下町のちょうど境目で、世界がぐらりと傾いたような感覚に襲われるなんて。視界が揺れて、耳鳴りが止まらない。何がきっかけだったのかは分からないけれど、あの夜の酒と、胸が張り裂けそうなほど高ぶった感情が、引き金になった気がしている。

恋愛リアリティーショーの収録現場で、彼は私の顔をじっと見つめたかと思うと、突然「清純ぶるな」「善人ぶるな」と毒舌を浴びせ始めた。私は「どうやってこの場を収めるか……」なんて、頭の中でシミュレーションを回し始める。みんなの視線が集まる中、彼がいきなりこちらを振り向いて言った。

「旦那、何か言ってよ!」

……え?

私「……?」

その瞬間、現場の空気が一気に凍りついた。私の脳内だけがバチバチにショートして、思考が追いつかない。

私がこの世界で担っているのは、西園寺珀(はく)様の“メディア対応・アンガーマネジメントのロールプレイ相手”という業務委託。表向きは、炎上や謝罪会見を想定した模擬トレーニングの相手役だ。けれど実態は、日々の仕事で溜まる毒を吐き出すための“罵声の受け皿”。私は月給100万円で雇われた、いわば心の痛み止め代わりに悪口を浴びる係。黒歴史だらけの女優で、打たれ強さには自信がある。自分のことを、感情の受け皿――サンドバッグみたいな存在だと卑下していた。

業界ではこれを“ストレス発散係”と呼ぶらしい。仲介人からは「西園寺様」ではなく「珀様」と呼ぶように、と念を押された。住所を細かく言わないのは、彼のプライバシーを守るため。建前は日本の芸能界にある“炎上対策のメディアトレーニング”や“アンガーマネジメントのロープレパートナー”としての業務委託だが、実際はただただ罵倒を受け止める仕事――そういう“建前と本音”の構造だ。

珀様はとにかく多忙な人。初めて会ったのは深夜。彼は都心の高層ビル、西園寺グループ本社の全面ガラスの窓の前でオンライン会議をしていた。完璧に仕立てられたスーツに、立ち居振る舞いも非の打ち所がない。なのに、唇をわずかに開けば「Fワード連発」「ピー音案件」ばかり。画面越しにもピリつく空気が伝わる。

「真夏の生ゴミ――閉店間際の売れ残りだ。」

「頑固で話にならない――全然通じないな。」

ラップバトルのようなテンポで、通りすがりの影にまで噛みつく勢い。私はおそるおそる部屋に入る前に、ドアを二回ノックした。彼は薄目を開けて、こちらを睨む。

「ノックが二回? 上司の部屋に入る時は三回だろ。俺のこと軽く見てる?」

慌てて三回ノックし直すと、彼は冷たく一瞥して言う。

「今度はうるさい。静かに入れって教わらなかったのか?」

……。

彼の理不尽なイチャモンは、幽霊よりもしつこい。その日は思い切って、靴の向きをきっちり揃えて入室してみた。どんなイチャモンが来るか分からなかったけど、彼もさすがにツッコミを迷った様子だった。こうして私は、サバイブするための小技を一つ覚えた。

私が芸能界に入ったのは、借金返済のためだった。実家の町工場・早川製作所が倒産し、父が会社の金を持ち逃げして夜逃げ。3億5千万の借金だけが残った。私は従業員の給料を捻出するために、家のブランド財布や私物をインスタライブで涙ながらに泣き売りしていた。

「くそ親父の早川、3億5千万の借金を残して夜逃げ。仕方なく、従業員に給料を払うために私物を売るしかなくて……」

財布は結局売れなかったけど、私は一躍話題の人になった。#下町のシンデレラ# そのとき、監督の目に留まった。

「君には壊れそうな雰囲気がある。“今にも壊れそう、誰か抱きしめて”と顔に書いてある。」

そりゃそうだ。誰だって3億5千万の借金を背負えば、壊れそうになる。私の目には、どこか危うさが宿っていたらしい。その“儚げ枠の二番手ヒロイン”として、私はデビュー作に抜擢された。人気が出ると同時に、身元も暴かれた。ネットバッシングの嵐にさらされ、「町工場の従業員のために早く借金を返せ」と糾弾される日々。夜も眠れず、泣きながら必死に金を稼いで返済し、いつか引退できる日を夢見ていた。マネージャーからの無茶な仕事も飲み込み、珀様の罵倒にも耐えた。

事務所は話題作りのため、私とライバルを恋愛リアリティーショーに送り込んだ。バラエティの世界に飛び込む覚悟は、とっくにできていた。

私はネットバッシングを予感していた。毎日ぼんやり、暗い気持ちで過ごしていた。メディアのインタビューでは「うんうん」と答え、珀様に罵られれば「はい、そうです」と返した。やたら「うんうん」「はいはい」と重ねるのは、私の皮肉返しだ。これで彼の注意を引いた。彼は長い指先でコツコツと机を叩き、その音はまるで葬送の鐘みたいに響いた。

「なずな、俺はお前の雇い主だ。お前は墓場で夜更かししてるような生き急ぎ――自分から火に飛び込むタイプだな。」

私はこの罵倒仕事が必要だった。泣きながら謝ると、彼は眉をひそめて言った。

「どうした?」

感情があふれた私は、これまでの苦労を全部ぶちまけた。彼は「大したことない」と軽く流し、昔は警察沙汰になりかけたと笑った。私は「立場が違うからそんなことが言える」と返し、彼の会社の一日の利息だけで私の一年分の稼ぎになると呟いた。お互い不幸自慢をして、途中で酒も開けた。酔いが回ると、彼は邪悪な笑みで言った。

「文句があるならやってみろ」

私も負けずに返した。

「私が簡単に見えるの? やれるもんならやってみなよ」

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