Chapter 9: 第9話:夜の寝殿トラップと逆賊一掃
私と湊が杏花楼で会っていたことはすぐに広まった。灯の下の噂は、夜のうちに朝の市場へと走る。
私は計画通り、夜更けに離宮に戻った。凛とした空気が廊の木目にこだました。
寝台に横になると、甘い香りが漂ってきた。鼻腔にまとわりつく違和感。私は窓を薄く開け、風を通した。
息を止め、濡れたタオルで口元を覆った。薬の匂いを遮るために。
寝殿には微かな足音。板の軋みが、やけに大きく聞こえる。
カーテンの外に高く細い影が現れる。月明かりが縁を白く縁取る。
私は目を閉じて寝たふりをした。呼吸だけを浅く、静かに。
その影はカーテンを開け、白い指先が私の頬をそっと撫でる。触れられた肌が、内側から冷える。
馴染みのある声が戸惑いを含んで囁く。「咲夜、どうしてだ?なぜ今世は俺を見ようともしない?本当は俺を愛しているんだろう?」甘さはいつも、遅れてやってくる。
私は吐き気を堪えた。喉が狭くなり、胸に嫌悪が溜まっていく。
彼はさらに囁く。「君はあの男といちゃついて……俺は胸が痛い。前は君の心も目も俺だけだったのに。何が君を変えたんだ?」嫉妬は幼く、言葉は陳腐だ。
彼の息が私の顔に近づき、指が首筋から鎖骨に滑る。冷たい指先が、記憶の悪夢を呼び起こす。
その瞬間、私の布団の中からもう一つの手が彼の手首を掴んだ。「まさかもう一人の男まで捕まえるとは、皇女殿下、君のことを慕う男は多いんだな。席を譲ろうか?」皮肉の匂いはいつも彼の登場を告げる。
私は驚いたふりをして湊の傍に寄った。「あなたは誰?よくも私の寝殿に忍び込んだわね!」声を上げながら、計画の通りに動く。
蓮は昼間の仮面をつけていなかった。顔は傷一つなく、つるりとしていた。見せたい顔だけを見せる男だ。
私は分かっていた。昼間はシステムの助けで容姿を変えていたのだ。現実も夢も、彼の顔はいつも借り物だ。
湊は蓮の手首をしっかりと掴んだ。骨の上に指を絡め、逃げ道を塞ぐ。
蓮は驚愕から怒りに変わり、「なぜお前が咲夜の寝台にいる?」嫉妬は彼の燃料だった。
湊は私に言った。「殿下、彼が聞いているよ。君はどれだけ男を惑わせるのか。俺が殺されるかもな。」軽口で火に油を注ぐ。
私は内心、湊を罵った。今、その冗談はいらない。だが、彼の軽さが場の緊張を保つのも事実だ。
これは計画の一つだった。湊は蓮が今夜来ると予想し、下人に扮して私と帰宅し、布団の中に隠れていた。私たちは、それぞれの役を演じている。
蓮は激怒し、短剣を抜いて湊を刺そうとした。刃の光が寝殿に走る。
湊も負けずに私を守りながら枕の下から剣を抜いた。備えは、いつでも冗談の下にある。
私は「刺客だ!」と叫び、湊の前に立った。「彼を傷つけないで!」声に、自分の意志を上塗りする。
「何よ?夜中に私の寝殿に忍び込み、何を企んでいるの?昼間、救援した仮面の男よね?何の目的で?」問い詰めると同時に、侍衛の足音が近づいてきた。
侍衛が駆けつけ、湊は蓮の隙をついて攻撃した。刃が交わり、火花が散る。
蓮は傷だらけになり、ついに倒れた。床板に血が滲み、月光がそれを冷たく照らす。
私は肩掛けを羽織り、湊にも掛けてやった。まるで恋人同士のように。意図的な演出は、場の支配を得るためだ。
湊は私の手を握り、「心配かけてすまなかった。」言葉の温度が、少しだけ本物に近づく。
蓮は怒りと悔しさで血を吐いた。目の色が変わるのを、私は見た。
私は侍衛に命じた。「彼を地下牢に送り、厳しく取り調べよ。誰の指示で何度もわたくしを襲ったのか!」声の強さで、場を締める。
蓮は連行される前、私を見て言った。「咲夜、君も……転生したのか?」最後の一手のように、問いを投げる。
私は冷静に答えた。「わたくしには分からないが、邪魔をした罪は命で償え。」冷たい言葉は、もう私の決意の一部だ。
蓮は連れ去られた。鎖の音が遠ざかる。
私は血痕を見つめ、考え込んだ。赤い筋が、思考を引きずる。
湊が近づいてきて、からかうように言った。「殿下は心が痛むのか?元恋人だから仕方ないよな。」冗談は、いつも彼の第一声だ。
「違う。ただ、あんな人に触れられるのが不快なだけ。」言いながら、指先を強く握る。
私は手拭いで顔や鎖骨を乱暴に拭いた。嫌悪を物理的に拭い取るように。
すると湊が手拭いを取り、丁寧に血を拭ってくれた。「女の子は大事にしないと。そんなに乱暴にしなくていい。体は自分のもの、大切にしなきゃ。」手の動きが柔らかい。彼は、時々こうやって優しさの刃を渡してくる。
私は彼を見て、少し心が動いた。嫌いなのに、救われる瞬間がある。
蓮は地下牢に送られ、私は夜のうちに宮中へ行き、お父様に事情を話した。夜の廊は冷たく、言葉は重い。
お父様は激怒し、徹底捜査を命じた。だが将軍家にまで及べば忠臣の心を冷やす。怒りは強いが、国はもっと重い。
私はお父様に、橘 紗季から調べるよう勧めた。糸をたどるなら、結び目からだ。
可哀想な紗季は目覚めたばかりで地下牢に仮押さえされ、勅命で御前にて取り調べを受けることになった。正しさと残酷さは、しばしば同じ顔をしている。刑の重さは変わらずとも、決定までは猶予が設けられた。
今世、蓮は私の力を借りず、敵国と通じてはいなかったが、将軍家には必ず密書があると信じていた。信じることは、時に賭けに似ている。
やはり、すぐに将軍家から密書が見つかった。橘将軍は敵国と通じた罪で、一族皆殺しの危機に。紙の束が、人の命の重さを持っている。
蓮は一逆賊の子として厳重に監禁された。鉄の匂いが、彼の周りに濃く漂う。
私は翌日、蓮に会いに行った。足音が地下牢の廊に吸い込まれていく。
彼は橘家とは無関係だと主張した。言葉は必死で、説得力は薄い。
私は彼の惨めな姿を見て、かつて好きだった人の末路を見届けた。愛は変わり果てた姿を見たとき、過去を静かに終わらせる。
だが復讐の快感はなかった。空虚だけが残った。ゲームだと言われてしまえば、怒りもどこかで白ける。










