木彫りの祈りと蛍光灯の夜、君の手の温度 / Chapter 1: 第1話:気難しい同居人と秘密の配信
木彫りの祈りと蛍光灯の夜、君の手の温度

木彫りの祈りと蛍光灯の夜、君の手の温度

著者: 稲葉 圭吾


Chapter 1: 第1話:気難しい同居人と秘密の配信

ライブ配信で木彫りの作業をしていると、酔っ払った同居人がしつこくキスをせがんできた。木屑の匂いと蛍光灯の白さ。画面の向こうに視聴者がいることを忘れないように、息を止める。やめて。斜め後ろからまとわりつく体温が、刃物を持つ指の神経を鈍らせていく。蛍光灯の唸りが一瞬響く。今は。

私は唇をきゅっと噛み、なんとか一線を守った。

「今はダメ。まだ作業終わってないから」

言いながら無意識に彫刻刀の刃先を布で覆い、カメラの角度も少しずらす。視聴者には作業台しか映っていないはずだ、と自分に言い聞かせる。

彼は私のズボンに手を伸ばす。「じゃあ、先にご褒美ちょうだい。昨日、約束したでしょ?」

低い声が耳に落ち、酒の甘い匂いがまとわりつく。手を払おうとしても、酔った力の重みは意外に強い。

翌日、SNSは大騒ぎになっていた。

私は頭がおかしくなりそうだった。

通知音が止まらない。ハッシュタグが勝手に増殖していくのを指の上で見つめながら、現実感が急速に削られていく。

一番お金に困っていた年、私は学生寮で木彫りのライブ配信をして小遣いを稼いでいた。

地元出身のルームメイト二人は私のことをうるさいと嫌がり、実家に帰ってしまった。

一人暮らしは気楽だった。

夜の寮は薄暗くて、作業台にだけ灯りをともすと世界がそこだけになる。視聴者が少なくても、木を撫でる音と自分の呼吸が一定で、孤独には慣れていた。

それが、学校で一番気難しいと噂される神谷陸(かみや りく)が私たちの寮に入寮してくるまでだった。

「気難しい」という評判は耳にしていたが、具体的にどこがどうなのかは誰も知らない。だからこそ、名前だけが独り歩きしていた。

隣の部屋で私と配信IDがかぶっている友人・本田和真(ほんだ かずま)は、わざわざ私に注意してくれた。

「彼、前の部屋でも同居人と揉めて部屋を変えたんだ。あんたはできるだけ関わらないほうがいいよ。何かあったら壁を叩け、いい?」

冗談めかして言うけれど、目は本気だ。壁越しのSOSの合図まで決めるなんて、和真らしい心配性。

彼の言葉はしっかり胸に刻んだ。

こういう時の直感はだいたい当たる。私は静かに頷き、彫刻刀の刃を一本ずつ布で包んだ。

私は子供の頃から中性的な顔立ちで、あまり喋らない性格だったから、友達もほとんどいなかった。

和真が残念そうな顔で私の手を握ったとき、初めて「男が好きでも大したことじゃない」と知った。

握られた手の温度が、許しみたいに伝わってきた。小さなことのようで、私には大事件だった。

神谷は黙っていると、とても冷たく見える。

彼が引っ越してきた最初の三日間、私は怖くて配信を始められなかった。

黒いカーテンの隙間から見える横顔は彫刻みたいに整っていて、そこに言葉が乗らないと余計に近づきがたい。

数少ないファンが私の配信に来て、【なでなで、最近どうして配信してないの?】と聞いてきた。

私の配信IDは「なでなでされたい」。ファンは直接「なでなで」と呼ぶが、私は気にしていなかった。

むしろ、その呼び方に救われる夜があった。頭を撫でてもらう代わりに、私は木の頭を撫でていたから。

木彫りのために寮にはたくさんの木材と宅配の箱が溜まっていた。

ルームメイトは私の荷物が多いと嫌がり、私がいない間に勝手に廊下や共同倉庫の隅に追いやったり、ゴミ捨て場に出されかけたこともあった。

私は雨の中、完全に捨てられる前の荷物をゴミ捨て場の手前で拾い戻した。

濡れた板の匂いは重く、雨に打たれた段ボールは指にまとわりつく。恥ずかしいよりも、必要な材料を守る必死さの方が勝っていた。

神谷は怖そうだし、もし明日配信を始めて彼がうるさいと怒ったらどうしよう?

考えすぎだと分かっていても、刃物の前では不安が増幅する。配信は騒音じゃないと説明しても、聞いてもらえる相手かどうかは別問題だ。

ベッドで何度も寝返りを打ち、意を決して神谷のベッド板をノックした。

指先に伝わる乾いた音が意外に響いた。夜の寮は自分の心臓の音まで大きくなる。

彼は私たちの間のカーテンを開け、目を上げて私を見た。

光の加減で睫毛の影が頬に落ちて、一瞬言葉を失う。声をかけなきゃ、と自分の舌に命令する。

前から彼がイケメンだと聞いていた。学校で彼を追いかける女子は、学食の行列より多いと言われていた。

今日見て、それが嘘じゃないと分かった。

冷たい造形の美しさ。近距離で見ると、目元の優しさが少しだけ滲んでいた。

ノンケにちょっかいを出さない、これは和真が教えてくれたルールだ。

心の中で何度も復唱する。線を越えるのは自分の弱さだ、と。

私は太ももをつねり、できるだけ声を震わせずに言った。

「わ、私は明日寮で二時間だけ配信するけど、静かにするし、十時前には絶対終わるから、いい?」

つねったところがじんじんする。言い切ると、少し呼吸が楽になった。

神谷は唇を舐め、表情はよく分からなかった。

「好きにしろ。明日は帰ってこない」

短く、それだけ。許可の言葉は、私には十分だった。

私はほっとして、布団の中でファンに一言ずつ返信した。【明日配信します】

指が小刻みに震えたけれど、送信ボタンは確かに押せた。約束があると、夜が少し明るい。

相手は「おやすみ」と返してきた。

私は返信しなかった。スマホを置いた瞬間、寝落ちしてしまったからだ。

……夢にまで、神谷が出てきた。

夢の中の彼は寮よりも優しく、私の名前を呼ばないまま、距離を詰めてきた。

翌朝、顔を赤くしてトイレに行くと、当の本人と鉢合わせた。

彼はちょうど顔を洗い終わったところで、濡れた髪の先から水滴が鎖骨に落ちて揺れていた。

私は顔を赤らめ、目を逸らした。

朝の光が彼の輪郭を柔らかくしている。目が合いそうになるたび、逃げる視線が情けない。

トイレから出ると、彼の姿はもうなかった。

残ったのはミントのような香りだけ。自分の頬がまだ熱いのが、腹立たしくも甘い。

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