第4話: 計算された愛情と一億円の請求書
「近藤さんと一緒に財産分与の明細もまとめたわ。問題がなければサインして」優花は私が投げた離婚届を拾い、ペンを差し出した。ペンの先が、私の未来を試す針に見えた。
財産分与?はは。喉で乾いた笑いが漏れる。
私と優花が付き合い始めてから2年余り。目に見えるものは全て私が払ったものだ。今さら財産分与とは。私はため息をつき、2年間寝食を共にしたこの女性を、実は全く理解していなかったことに気付いた。愛だけでは、相手の心は読めない。
「もういい。細かい話はやめて、欲しいものをはっきり言ってくれ」私は座ってこめかみを揉み、優花に話させた。冷静さを保とうと、深呼吸を一つした。
「結婚して2年、家の貯金は120万円。これは半分ずつ分けましょう」優花は帳簿を取り出して読み上げた。紙の擦れる音が妙に大きい。
「ちょっと待って、どうしてそんなに少ないんだ?」最初から納得がいかず、すぐに優花を遮った。数字の桁が、私の実感とあまりにも違いすぎる。
優花は働いていない。私の給料は当然夫婦の共有財産だ。だがこの2年、給料とボーナスを合わせて2000万円は超えているはずだ。
私は普段ほとんど出費がなく、給料やカード類は全て優花が管理していた。物欲もなく、スーツも数着しか持っていない。子供もいないし、住宅ローン以外に大きな出費はない。なぜこれだけしか残っていないのか?頭の中で項目を並べても、説明がつかない。
「優花、私の言った通りでしょ?早見さんみたいな男は、愛してると口では言いながら、お金の話になると急に焦り出すのよ」「今になって本性が分かったでしょ?細かく計算し始めたわ」近藤が煽る。言葉の温度は、いつも低い。
私は彼女を一瞥し、優花の説明を待った。目だけで静かに促した。
「食費や美容、買い物、全部お金がかかるのよ。信じないなら銀行の明細を見てみれば?」優花は近藤の言葉に乗せられ、不機嫌そうに言った。語尾が尖り、私を突き刺す。
「分かった。それでいい。続きを話してくれ」私は大体事情を察し、諦めて続きを促した。今さらレシートを一枚一枚並べても、過去は戻らない。
家の貯金は、優花が私に隠れて使ってしまったのだろう。家計簿や銀行明細、カード利用額を思い返すと、美容、ブランド品、外食、クラブ代、時々は友人への送金もあった。毎月何十万円も消えていたのだろう。細かく追及しても意味はない。すでに使われたものだ。使途不明金という言葉が、今さら虚しく響く。
「あなたが乗っている車はBMWの3シリーズ。買った時に600万円したけど、私は運転できないから、300万円を現金で渡してくれればいいわ」優花は続けて読み上げた。口調だけは淡々としていて、その無感情さが逆に怖かった。
車は結婚時に買ったものだ。当初は普通の車で良かったが、優花が会社の管理職らしい車でないと体裁が悪いと言い張り、BMWになった。まさかこれも財産分与の対象になるとは。しかも購入価格で半分現金化しろとは。2年も乗った車は値下がりして当然、しかも輸入車は値落ちが激しい。今なら中古市場で400万円がせいぜいだ。
「続けて」私は冷静を装って続きを促した。冷静という仮面は、今の私の唯一の武器だ。
「宝飾品は、最近金の価格が変動しているから細かく計算しないで、それぞれ自分のものを持っていきましょう」優花は帳簿を見下ろしながら言った。さらりとした一言が、私の両親の想いまで軽く扱う。
私は思わず拍手したくなった。家に宝飾品は多いが、私のものは結婚指輪だけ。他は全て私の両親が結婚時に買ったものか、私のお金で優花が買ったものだ。『それぞれ自分のもの』という一言で、優花はほぼ全部持っていくことになる。言葉のマジックだ。
「他には?」私は興味が湧き、優花がどこまで計算しているのか知りたくなった。ここまで来たら、最後まで聞こう。
「それからこの家。今の査定で7500万円くらい。頭金20%、ローンは30年。ローン残高は約5500万円。だから今売れば、仲介手数料や諸費用を引いて、純資産はだいたい2000万円くらいになるわ」「その純資産の半分、1000万円を清算金としてもらいたい」「家のローンはあなたが払い続けて。私はもう払えないから」「あと、細かい出費やリフォーム代は計算しない。全部で家から受け取るのは1000万円でいいわ」優花は計算機で何度も確認してから言った。電卓の音が、判決文のハンコの音みたいに聞こえた。
「まだある?」私は心の中で呆れつつも、辛抱強く尋ねた。冷笑が喉元まで上がってきたが、飲み込んだ。
「今は収入がないから、生活レベルを維持するための解決金――扶養的財産分与も考えてほしいの」「算定表だと月10万円くらいだから、5年分、600万円を一括で払ってほしい」「他にも細かい出費、例えばリフォームや家具の購入は計算しないわ。全部で1600万円で手を打つ」優花は帳簿を置き、真剣な顔で私を見た。その真剣さは、どこか現実から切り離されていた。息が詰まる。利息。二十八年。笑うしかない。










