君に手を伸ばすために、もう一度だけ春に還る / 第4話:甘える義妹と冷めゆく家族の情
君に手を伸ばすために、もう一度だけ春に還る

君に手を伸ばすために、もう一度だけ春に還る

著者: 菊地 悠


第4話:甘える義妹と冷めゆく家族の情

だが、思いがけず、ソファに座っていたエレナが立ち上がり、俺の手を取ってきた。香水の甘さが鼻についた。

彼女は手を揺らしながら、語尾をだらっと伸ばして甘えた声で言う。「お兄ちゃん、どしたのぉ? 私、なんか怒らせちゃったぁ? もしかしてぇ、戸田くんのこと誤解してる? あのねぇ、彼って悪い人じゃないんだよぉ。今日もね、私のこと助けてくれたしぃ。今日はちょっと用事があってぇ、うっかり待つの忘れちゃっただけなの。ねぇ、怒らないでぇ?」言葉の途中でわざと間を作り、目線はちらちらと俺から逸れる。その粘つく甘さと、ずうずうしさの混じった仕草に、どこか計算めいたものを感じてしまう。

俺は短くため息をついて、視線を外した。どうぞ二人でくっついて、他人を巻き込まないでくれ。心の底で吐き捨てる。

俺は適当にあしらった。わざとそっけなく、「そう、別に気にしてないよ」とだけ返し、彼女との距離を保つ。

血の繋がりがないから、結局は外の人間を贔屓するものだ。彼女の視線は、いつだって俺以外の方向を向いていた。

その手を振り払いたかったが、ふと階段から母が降りてくるのが見えたので、我慢した。母の前で余計な誤解を招くつもりはない。

母は厳しい表情で尋ねた。「エレナ、何をしているの?」山手の空気のように、冷たく澄んだ声だった。

彼女は母をとても怖がっているので、慌てて手を離した。視線が泳ぎ、足元が揺れた。

この光景は、母の目には後ろめたさと映った。マナーと境界を学ばない子どもに見えたのだ。

前世、母が俺たちの間に特別な感情があると気づいたとき、二人の関係を断ち切った。家庭の秩序を守るために、容赦はしなかった。

その後、エレナは戸田に助けられたことに感激し、彼と付き合うようになった。恩が恋にすり替わるのは、よくあることだ。

長年の絆も、他人の策略には勝てなかった。前世の俺は愚かにも真実に気づけなかった。目の前の美しさに、目を奪われていた。

厳密に言えば、エレナはもともと俺を好きではなかったのだろう。俺が勝手にそう信じていただけだ。

本当に好きなら、俺を捨てることなどできるはずがない。愛は、都合よく消えたりしない。

前世、エレナは産後間もなく、戸田がミルク代も出せず、彼女に働きに出るよう迫った。エレナは産後の体でバッグを売ってお金を作った。あのときの彼女の姿は、哀れで、そして醜かった。

俺は彼女の苦境を知り、家族カードを渡して、好きなものを買うように言った。彼女が笑えば、それで良かった。

だが今世、そんな男女のことに関わるつもりはない。彼らの選択に、俺はもう付き合わない。

むしろ、二人が酷い目に遭うのを見てみたいくらいだ。自分の選択の代償は、自分で払うべきだ。

明るいリビング。白い壁に差し込む夕陽が、長い影を落としていた。

母は怒りを目に浮かべ、きちんと座っていた。育ちの良さから、きつい言葉は口にしない。静かな厳しさが、空気を締める。

俺は自ら母の隣に座り、手を軽く叩いて宥めた。「さっきはエレナが急に手を繋いできたんだ。何かあったのかもしれない。」空気をやわらげるために、あえて柔らかく言う。

視線を彼女に向ける。戸田とのことは、今は家族に言う勇気もないだろう。彼女の瞳が、怯えで濁っていた。

母は、家で育てたお姫様が不良と付き合うのを許さない。学園の評判と彼女の進路を、母は何より重く見ている。

もし母が知ったら、校内での不適切な行為が発覚し、生徒指導部から呼び出しや反省文の提出、指導記録が残ることになるだろう。その後、場合によっては停学や保護者面談となり、進路指導の先生も動くはずだ。退学や処分は学校側の審議を経て正式に通知されるし、母は家庭の判断で転校や留学の手続きを進める立場になる。二人はきっと引き離されるだろう。

だが二人は離れるべきじゃない。地獄に一緒に落ちるべきなのだ。そこで初めて、自分の足で立つ方法を知ればいい。

前世、母が二人の恋愛に気づいた後、引き離し、エレナをフランス留学させて七年間離れ離れにした。静かな街路樹の道で、二人の影は切れた。

それが、俺の火事での事故後、エレナが戸田と手を組んで家の財産を奪った理由かもしれない。彼らは俺たち家族を恨んでいたのだ。恨みは安い正義に化ける。

エレナの目には驚きが浮かんでいた。なぜ俺が彼女を売ったのかと驚いているのだろう。彼女はいつだって、自分の甘さを他人のせいにした。

母も顔色が悪い。エレナが分別をわきまえないと感じているのだろう。以前から「もう大人なのだから、過度に親しくするのはよくない」と言っていた。境界線は、守るためにある。

「わ、私、ごめんなさい、お母さん。もう二度としません。」エレナは怯えて謝った。声が震え、視線が足元の絨毯を彷徨った。

「うん。」母は淡々と答えたが、心中では別の考えを巡らせていた。静かに、しかし確かに手を打つつもりだった。

夕食後、エレナは自室へ戻った。背筋に弱さが滲んでいた。

落ち込んだ背中を見送りながら、俺は首を振った。今から落ち込むのは早すぎる。まだ、これからだ。

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