第3話:もう一人の幼なじみと失われた恋
俺は振り返ってその場を離れようとした。だが思いがけず、振り向いた先で星名栞が俺をこっそり見ていた。あどけなさの残る瞳が、俺に気づいて慌てて泳ぐ。
驚きと戸惑いの表情を浮かべた白い小さな顔を見て、ようやく思い出した。胸の奥が、やわらかく痛んだ。
栞はもう一人の幼なじみで、家も隣同士、小さい頃から一緒に育った。九条家の塀越しに笑い合った記憶が、脳裏に浮かぶ。
だがその頃、俺は彼女に注意を払わず、心は全てエレナに向いていた。視界の端にいる彼女の笑顔を、俺は見ようとしなかった。
前世、俺が死んだ後、栞は両親のそばにずっといて、後始末を手伝ってくれた。静かな献身は、誰よりも俺を支えてくれていた。
だが、まさか俺の死後一週間で、彼女が自ら命を絶ったとは思わなかった。あの知らせは、世界の色を失わせた。
そのとき初めて、彼女がずっと俺を好きでいてくれたことを知ったのだ。言葉にしてくれなかった優しさが、痛いほど分かった。
俺は呆然としている栞のそばに歩み寄り、重そうなリュックを持ってやった。肩に食い込んだ紐の跡が、彼女の細さを語っていた。
笑顔で声をかけた。「一緒に帰ろうか?」ゆっくり、彼女の目線の高さに合わせるように。
彼女は丸い目を見開いて固まった。「え?私?エレナを待たなくていいの?」戸惑いと期待が、声の端に滲んでいた。
あんな裏切り者を待つ理由なんてない。俺は心の中で冷ややかに答えた。
横目で、無理に笑いを堪えている彼女を見やる。俺が彼女の気持ちに気づくのを恐れているのだろうか。慎ましさゆえの距離を、彼女は守っている。
よく考えれば、前世で彼女は俺に告白したことはなかったが、毎年俺の誕生日パーティーには欠かさず来ていた。人目の届かないところで、いつも俺を支えてくれていた。
必ず、俺の好きなフィギュアを集めてプレゼントしてくれた。箱を開ける瞬間の俺の顔を、彼女は嬉しそうに見ていた。
自分の好きな人が他の人を好きだと知りながら、言葉にできない想いを抱える苦しさは、よくわかる。あの苦い甘さを、俺はもう見過ごさない。
「行こう、こんなに暑いし、アイスでも食べに行かない?」夏の光がきらきらと校門を揺らしていた。
「うん!」彼女の返事は、氷菓のように澄んでいた。
その時、下校したエレナが校門から出てきて、俺の背中に向かって呼んだ。甲高い声が、夏の空気に絡む。
聞こえたが、知らないふりをした。振り向く価値は、もうない。
俺は栞の腕を取って、家の運転手が待つ車へ早足で歩き、乗り込むとすぐに出発してもらった。シートが軋む音が、小さな決意を肯定してくれた。
エレナが車を追いかけてきても、全く心は動かなかった。足音も、息切れも、何も届かなかった。
栞もエレナが追いかけているのに気づいていたが、何も聞かず、静かに俺のそばにいた。彼女の沈黙は、優しさでできていた。
この子はきっと、俺がエレナと喧嘩して八つ当たりしていると思っているのだろう。俺の乱れを受け止める覚悟を、彼女はもう持っていた。
家に帰る途中、俺は運転手に停車を頼み、約束通り栞とアイスクリームを食べに行った。みなとみらいの風が、甘い匂いを運んできた。
彼女は小さなハムスターみたいに少しずつアイスを食べ、満面の笑顔を浮かべていた。スプーンの先に残る白い跡が、可愛らしかった。
俺は思わず彼女の頭を撫でた。柔らかな髪が、指の間にさらりと滑った。
この子は、なぜ前世で俺と一緒に逝ってしまったのだろう。胸に詰まる思いは、氷では溶かせない。
いつから俺を好きになったのだろう。答えのない問いが、静かに膨らむ。
彼女の耳たぶが赤く染まるのを見逃さなかった。頬まで染まる色が、言葉より雄弁だった。
アイスを食べ終え、栞を家まで送り届けてから自宅に戻った。山手の坂道が、夜風に溶けていく。










