第4話: スイスの約束が捨てられた日
十年後、俺はしおりと結婚し、豪華な家を持っていた。港区の夜景に囲まれ、エレベーターは静かに最上階へと運ぶ。
すべてが俺の想像通りに進んだ。貧しい少年の夢が現実へ変わり、あの時指差した高層の一室も手に入れた。
ただし、俺たちの関係だけは。家は整ったのに、心はいつまでも片付かなかった。
秘書から電話がかかってきたとき、俺は天井を見上げながら、すべてを消化しようと努めていた。白い天井の隅に、小さなシミがあった。そこに目を固定して、考えることを忘れようとした。
スマホもパソコンも隅々まで調べたが、頭は空っぽのままだった。十年分のログは俺の中にない。俺は俺の履歴にアクセスできない。
「桐生社長、明日、本社の重要な経営会議がございますので、ご出席をお願いします。」秘書の声は丁寧だったが、言葉の裏で焦りが鳴っていた。
俺はしばらく沈黙し、ようやく口を開いた。「ちょっと問題があって、うまくやれそうにない。」言い訳ではなく、ありのままの限界だった。
秘書は困った様子だった。「私では判断できませんので、鳳社長、本社のご意見を仰いだ方が……」社内の空気が、彼女に頼ることを前提としているのが分かった。
しおりは相変わらず電話に出なかった。着信履歴の数字だけが増え、画面の向こうの彼女は一向に現れない。
俺は仕方なく会議に臨んだ。身体は椅子に座っているが、心はどこにも座っていなかった。
予想通り、すべてを台無しにした。資料は手についてこない。要点は理解の先へ滑っていく。
取引先は失望した顔で言った。「桐生社長、御社への信頼が揺らいでおります。このままでは、今後の契約は見直さざるを得ません。」現実の評価は、いつだって容赦がない。
給湯室ではこんな噂が聞こえた。湯気の向こう側で、囁きが形を結ぶ。
「桐生社長、事故以来、頭の調子が悪いらしいよ。鳳社長はどこ行ったんだろう、ちゃんと面倒見てるのかな?」
「桐生はもともと鳳社長に頼って出世したんだし、こうなるのも当然だよ。」
「鳳社長、スイスに旅行に行ったって聞いたよ。あの若いイケメン、鳴海昴(なるみ すばる)を連れてさ。鳳社長が後押ししたおかげで、彼の仕事もすごく順調だし。」週刊誌の表紙が、給湯室のテーブルの上に広げられていた。見出しは、鮮やかな嘘と真実の色を混ぜていた。
「じゃあ桐生社長は可哀想だな。うちの子会社、どうなっちゃうんだろう……」ため息混じりに言って、マグカップの中身をかき回した。
ああ、彼女は新しい恋人とスイスに行ったのか。氷山と草原の青が、胸に冷たく沈む。
俺は、あの蝉の鳴く熱い夏を思い出した。俺たちは汗だくになりながら、交差点でチラシを配っていた。
チラシには、連なるアルプスの山々が印刷されていた。インクの匂いが強く、紙が手に張り付いた。
俺は彼女に約束した。いつか、必ずスイスに行こうと。口にした夢は、貧しい頃ほど甘かった。
緑の草原、真っ白な雪、山を越える鳥たちを見ようと。
高い空の上で、きっと抱き合おうと。彼女の笑い声は、風より軽かった。
でも残念ながら、その日は永遠に来ない。約束は置いてきぼりになり、現実だけが先を走っていった。










