第3話: 平手打ちと一瞬の優しさ
俺は肩まで上げた拳をゆっくり下ろし、深く息を吸った。自分でも情けないくらい、震えていた。
それでも足は前に出たままだ。引き際を見失うのは、いつだって愚かだ。
バン――
壁を拳で叩いた乾いた音が室内に跳ね、時間が一瞬止まる。
彼女の手が俺の襟を掴み、距離を詰めた。冷たい香りが間近で揺れる。
しおりは俺の頬にバシッと平手を一発くれた。乾いた音が肌に張り付き、遅れて熱が込み上げる。
「ここで暴れたら警備を呼ぶわ。――出ていきなさい。」言葉は氷の刃だった。俺は口を開きかけて、何も言えなくなった。
「桐生! いい加減にして!」言葉の矢が、容赦なく胸へ刺さる。昔の優しい呼びかけは、もうここにはいなかった。
またその表情だった。まるで俺が死ねばいいとでも言いたげに。眼差しは氷点下まで落ちていて、俺の存在そのものを拒んでいる。
男は口元の血を拭う。緊張で唇を噛んだのか、赤が滲んでいた。床から立ち上がると、しおりの手を大切そうに握った。「しおり、怪我はない?」柔らかい声が俺の耳に届くたび、耳の奥で脈が強く打った。
その光景は目に焼き付いた。彼女の手を包むその指先が、俺が知る優しさの形に酷似していて、なおさら耐えがたかった。
彼は彼女を抱き寄せ、まるで自分のものだと誇示するかのようだった。俺の前で、所有を確かめるみたいに。
「桐生、言っておくが、君たちはもう長いこと別の部屋で寝ているし、手続きも進めるって聞いてる。しおりと俺がどうなろうと、君にはもう関係ない。」男は冷静な口調で、俺の居場所を一瞬で消し去った。
俺は空っぽの壁を見つめた。そこにかつての写真の影を探したが、見つかるのは白い面だけだった。
ふと、しおりがハンマーを手に、家中のウェディングフォトを怒りに任せて叩き壊していた場面が脳裏をよぎった。笑う二人、乾杯する二人、抱き合う二人。ガラスが割れる音とともに、次々と消えていった幸福の形。
十八歳の俺は、俺たちの未来がこんな風になるなんて、夢にも思わなかった。あの夜の星が今も眩しく、今の闇がなお暗い。
ぼんやりと尋ねた。「一体……何があったんだ?」自分の声が聞こえない。唇だけが動いているようだった。
俺の困惑した目を見て、しおりは冷笑しながら言った。「また新しい手口?」目には警戒が宿り、過去の記憶が俺を加害者に仕立てている。
血が指先から滴り落ちるまで、彼女の顔にようやく動揺の色が浮かんだ。白いラグに点々と赤が落ち、非現実が現実へ寄ってきた。
「あなたの腕が……」声が震え、昔の彼女の声色を思わせる優しさが、ほんの一瞬だけ顔を出した。
彼女は手を伸ばし、俺を掴もうとした。触れたいのか、止めたいのか、どちらともつかない仕草だった。
俺は無表情のまま、背を向けて部屋を出た。胸の奥で何かがひとつ、静かに折れた。










