第1話: 十年喪失と余命半年の宣告
交通事故で、俺は十年分の記憶を失った。胃の腑が冷たく縮み上がる。気づけば、目の前の世界が別人のものみたいに感じられた。目を覚ました瞬間、すべてが他人の人生にすり替わっていた。
目覚めたとき、幼なじみであるはずの妻・鳳小鳥(おおとり しおり)が、冷ややかな目で俺を見下ろしていた。「こんな茶番、いつまで続けるつもり? 桐生湊(きりゅう みなと)、本当に最低ね。」その言葉は、胸の奥に容赦なく突き刺さる。痛かった。
息が詰まり、頭がぼんやりする。視界の端が滲む。現実そのものが遠のいていく。彼女の顔を見ているのに、どこか遠くを見ているような感覚だった。嘘だろ。
一晩で、かつては純粋で可愛らしかった彼女が、今やスーツ姿に真紅の口紅を引き、息を呑むほど美しい女性になっていた。都心のトップを走る経営者の空気をまとい、柔らかな髪もきっちりとまとめ上げられている。見惚れるほど整っているのに、その美しさは俺にとって救いではなく、無言の距離を示す仮面だった。遠い。
目を開けると、視界は真っ白で、鼻腔には消毒液の匂いが充満していた。電子医療機器の無機質なアラート音が一定のリズムで響き、遠くで車椅子の軋む音が微かに交じる。都心の大病院らしい、どこか冷たく管理された空気が漂っていた。ここが現代の病室だという事実だけが、確かだった。
しおりは俺のベッドのそばに座っていた。足を組み、手首に光る時計を無造作に弄びながら、何も言わずにじっと見下ろしている。その沈黙が、言葉より重かった。
物音に気づき、彼女は目を上げて俺を見た。その目は暗く沈んでいた。見知らぬ水底を覗き込むような冷たさがあり、俺の名を呼ぶ声からも温度が消えていた。
「こんな茶番、いつまで続けるつもり? あなた、楽しい?」軽蔑を包んだ柔らかな声色が、逆にきつく耳に残る。彼女の口調は丁寧なのに、内容は冗談の余地がないほど残酷だった。
彼女の表情には、嫌悪が隠されていなかった。眉間のわずかな寄り、鼻先のかすかな震え、冷たい視線。どれも、俺への拒絶を雄弁に語っていた。
俺は戸惑った。「何のことだ?」喉が乾いて声が掠れ、言葉が思うように出てこない。問いかけながらも、自分が何を問いかけているのか分からなくなる。
だが彼女は説明する気もなく、立ち上がって出ていった。「自分でなんとかしなさい。」椅子が床を擦る音とともに、香水の残り香だけを置いて、無表情にドアの向こうへ消えた。
「しおり、冗談はやめてくれよ?」たまらず呼び止める。声は情けなく震え、頼りない自分の響きに自分で驚いた。
手を伸ばして彼女の服の裾を掴もうとしたが、空を切るばかりだった。指先に触れたのは、ただ冷たい空気。すり抜ける現実に、胸の奥が空洞になっていく。
ハイヒールの音が遠ざかる。トン、トン、と廊下に規則正しく、無慈悲に刻まれていく。立ち尽くす俺の耳に、それだけがはっきり響いていた。
いくつかの場面が脳裏をかすめた。曖昧な輪郭の思い出が、断片的に立ち上がっては崩れていく。十年前の夏、笑い合った顔。砂浜で拾った貝殻。どれも焦点が合わない。
彼女が冷たい顔で言う――
「私はあなたの顔が好きなだけ。誰であろうと関係ない。」
「自分が何様だと思ってるの? 私に口出しする権利があるとでも?」
一体何があったのだろう? 頭の中で問いが渦巻き、答えはどこにも見つからない。十年分の空白が、俺の理解を容赦なく奪っていた。
俺としおりは千葉の海沿いにある児童養護施設『なぎさ園』で育った、まさに幼なじみだった。潮風が強い日は、窓ガラスが震えた。祭りの日は、園の前の道路に屋台が並んだ。俺と彼女は、その端っこで焼きそばを分け合った。
俺たちは一生一緒にいると誓った。園の裏の遊歩道で、手を繋いで約束した。なんの保証もない未来でも、二人でなら、どこでも家になるって笑った。
恋人としてでも、永遠の家族としてでも。血の繋がりなんていらない、そう思っていた。二人の生活が、何よりの拠り所だった。
いつからこんな風になってしまったのか? 時間がどこで曲がったのか、まるで分からない。十年分のアラームが鳴らないまま、いきなり今へ引きずられた気分だった。
戸惑う俺のもとに、医者がやってきた。白衣の裾がふわりと動き、カルテの紙が乾いた音を立てる。
俺は答えを求めて必死だった。「俺は一体どうなったんですか?」自分でも引くほど取り乱していた。それでも、聞かずにはいられなかった。
医者は答えた。「今回の事故で頭を打ち、記憶に障害が出ました。」穏やかに、しかし逃げ場のない現実だけを手渡す口調だった。
今は2023年だという。病室のテレビに映るニュースのテロップも、見慣れない言葉や事件名ばかりで、時間の流れが他人のものに見えた。
俺の記憶は2013年で止まっていた。止まった時計をいくら叩いても、針は動かない。十年分の季節が、俺の心にはまだ訪れていない。
「桐生さん。事故の前に『もしもの時は妻には言わないでくれ』とご本人の希望がありました。そのため、ALSの診断については奥様には伝えていません。記憶障害のほうは、奥様も日々の様子から把握されています。」
医師は言いづらそうに言葉を選んだ。「今のままでは、半年も保たないでしょう。ALSの進行が想定よりも早い。今後は嚥下や呼吸にも影響が出る可能性があります。」
その言葉はまるで青天の霹靂だった。雷鳴が真上に落ちてきたみたいに、内側から骨が震えた。拒否反応すら追いつかない。
俺の人生は、巨大な冗談のようになった。笑いごとにするには悪趣味すぎる悪夢だ。目覚めたら、その結末だけが机の上に置かれていた。
ただ眠っていただけで、十年後の世界に来てしまった。置いていかれた時間は戻らず、追いつこうにも足がもつれて転ぶばかりだ。
愛する人はもう俺を愛していない。たった十年で、俺たちの土台は崩れた。信じていた約束も、どこかへ流れ去ってしまった。
俺の命も、残りわずかになっていた。期限の切れた切符を握りしめて、ホームに立たされている感覚。列車は待ってくれない。










