第6話:認証削除と最後の部屋出発
美羽は海外出張で半月ほど家を空けることになった。会社の都合で急に決まったと聞かされたとき、僕はほっとした。彼女を少しでもこの部屋から離したくて、ただその流れに身を委ねた。
出発の日、僕は美羽を駅まで送らなかった。ただ玄関でスーツケースを手渡して「じゃあね」と言った。短い一言に、長い意味を詰め込む。
美羽はじっと僕を見つめ、複雑な表情を浮かべていた。最後まで何も言わず、背を向けて去っていった。車が遠ざかるのを見届けて、ようやく強く握っていた拳を緩めた。
咳が止まらず、危うく美羽に異変がばれるところだった。喉の奥が焼けるように痛む。
僕は荷物をまとめて、美羽と一緒に作り上げた部屋を見渡した。悲しみが胸いっぱいに溢れそうだった。残るは最後の一歩だけ。
僕はスマートホームのAIを呼び出した。「ナビゲーター。」
ここで呼んだのは家の音声アシスタントのほうだ。
「はい、どうぞ。」落ち着いた合成音声が応じる。
「市原彼方の認証を削除して。」
「処理します。……完了しました。市原彼方の認証を削除しました。」ドライで丁寧な返事が、少しだけ冷たい。
僕はスーツケースを引いて部屋を出た。空はどんよりと曇っていて、今にも雪が降りそうだった。冷たい風が吹き抜け、鳥肌が立つ。
僕はつい美羽の手を握りたくなった。でも、振り返ってようやく、美羽はもう出張中だと思い出した。体調が日ごとに悪くなり、物忘れもひどくなった。
僕は苦笑いした。出張でなくても、もう美羽は僕に手を握らせてくれないだろう。美羽は体質的に手足が冷たく、冬は特につらい。
僕は逆に体が温かくて、彼女がポケットに手を入れてくるのをよく許していた。でも「一生手を温めてあげる」と約束した彼女の手は、今ごろきっと他の誰かに温められているのだろう。
最後に数年過ごした部屋を振り返り、背を向けて歩き出した。引っ越してきたのは春だったが、今はもう初冬。二人だったのが、一人になった。
僕は自分が買った小さなマンションに戻った。カウントダウンは残り六日。時間の数字が、どんどん鋭くなる。










