冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき / 第5話:エレベーターの傷と氷の視線
冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき

冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき

著者: 吉川 るい


第5話:エレベーターの傷と氷の視線

「先輩。」

ひよりの声が、私を現実に引き戻してくれた。

ひよりは何食わぬ顔で私の前に立ち、私と小雪の間に壁を作ってくれた。さりげない立ち位置が、息苦しさをやわらげてくれる。

「先生によれば、お母様の数値はもう正常なので、心配しなくて大丈夫ですよ。」

私はうなずいた。

「一緒に上の階に行って、お母様の様子を見ましょう。」

「うん。」

ひよりが二人の姿を見ていたかどうか分からないが、彼女の存在が私の気まずさを和らげてくれた。心が少し動いた。

エレベーター前までついていくと、扉が少し開いた瞬間、騒がしい声が聞こえてきた。

エレベーターの中で人々が押し合い、混乱していた。若い看護師が仲裁に入るが、押しのけられ、点滴スタンドにぶつかりそうになる。皆が「すみません」と小声で譲り合うが、狭さが災いして動きが噛み合わない。私は咄嗟に手を伸ばしたが、その時点滴スタンドがバランスを崩し、私に向かって倒れてきた――

間一髪、二人が支えてくれた。

小雪とひよりだった。

私は看護師を起こした。

「二人とも怪我してます!」看護師が言う。声は必要以上に大きくならないよう、病棟の空気に合わせて抑えられていた。

私は反射的に小雪の方を見た。彼女の手には長い切り傷があり、血がぽたぽたと滴っていた。私の心は一気に締めつけられ、思わず駆け寄ろうとした。

「小雪!」

天宮の焦った声が、私の動きを止めた。

天宮が足を引きずって駆け寄るのを見て、私は無理やり方向を変え、ひよりの方へ向かった。

「大丈夫?傷は?」

彼女の小さな手を取り、じっと見つめる。小雪に比べれば、ひよりの傷は小さく、血もほとんど出ていなかった。

「大したことないよ、こんな小さな傷。痛くないし。」ひよりは柔らかく言った。

「だめだ、どんなに小さくても手当てしないと。」

ふと、冷たい視線に気付いた。

小雪だった。彼女がこんなに冷たい顔をするのは珍しい。目の奥が赤く、何かが壊れたようだった。張り詰めた氷が、ひび割れの音もなく崩れていく気配。

周囲は騒がしかったが、私は小雪の刺すような視線に動けなくなった。

最後にこんな小雪を見たのは、高校二年の時だった。あの時、クラスの花形に校舎の回廊で告白された。

小雪も今と同じように、冷たい顔で機嫌が悪そうだった。私は一瞬、彼女が嫉妬しているのかと思った。

でも、実際は私の思い上がりだった。

「先輩。」ひよりが呼びかけた。「上に行こう。」

「うん。」私はぼんやりとうなずいた。

だが、二歩進んだところで小雪が目の前に立ちはだかった。血の滴る手を見せつけて言った。「湊、私が怪我してるの、見えないの?」

私は顔を上げ、小雪の暗い目を見つめるが、言葉が出なかった。彼女は私をじっと見つめ、まるで魂まで見透かすようだった。

その後ろでは、天宮が苦労してこちらへ向かってきていた。

「小雪……あっ!」

小雪が必死に天宮を支える様子を見て、私は目頭が熱くなった。

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