冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき / 第4話:病室で出会った後輩と本当の夫婦
冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき

冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき

著者: 吉川 るい


第4話:病室で出会った後輩と本当の夫婦

ああ、「あんなの高いし、身は少ないし、剥くのも面倒。好きじゃない。」

「俺が剥くから、君は食べるだけでいいよ」と言ったら、「待つのが面倒」と返された。

今思えば、彼女はカニが嫌いなのではなく、私が好きじゃなかっただけなのかもしれない。

苦味が唇に広がる。受付印の押された提出控えを握りしめ、その硬い角が手のひらに食い込む。そうでもしないと、少しも楽になれなかった。

病室に着くと、母はすでに目を覚ましていた。私と小雪が忙しく立ち回る姿を見て、母は満足げに微笑んだ。

母は小雪のことが大好きで、離婚のことはとても言い出せなかった。

小雪は模範的な妻を見事に演じてくれた。私の腕に絡みつき、私を孝行息子だと褒めてくれる。声は控えめで、周囲に配慮した柔らかさに満ちていた。

初めて、小雪の接触に少し抵抗を感じた。理由は分からない。もしかしたら、彼女が天宮と肌を重ねているのを見てしまったからかもしれない。

「ちょっと、先生に様子を聞いてくる。」

小雪の腕を振りほどき、廊下に出たところで小柄な体にぶつかった。

素早く手を伸ばして支える。よく見ると、「後輩?」

正直、ここで朝日ひよりに会うとは思わなかった。

「先輩、お母様ですか?」ひよりも少し驚いた様子だった。彼女の声は小さく、廊下の静けさに溶けていった。

私はうなずいた。

ひよりとは大学のゼミで知り合った。社会人になってからも、同じ沿線で働く後輩として、忙しいときに資料の確認を手伝ってくれたり、昼休みに「ちゃんと食べてますか」とLINEをくれたりした。そんなさりげない支えが、仕事の日々の心の支えになっていた。

当時、ゼミの皆はひよりが私を好きだと言っていた。そのせいで噂になったこともあったが、私は気にしたことがなかった。

ひよりは「大したことないですよ。しばらく入院して、食事と気持ちを管理すれば大丈夫です」と私を慰めてくれた。

隣のベッドの女性――ひよりの母も病気で、同じ病室だった。まったくの偶然だ。

話の途中で、ひよりは小雪をちらりと見た。

「奥様……ですか?」少し間を置いて尋ねた。

私は無表情でうなずいた。

大学を卒業してすぐ、私は小雪に結婚を申し込んだ。彼女の母も私の母も大喜びで、小雪も特に拒否しなかったので、すんなりと結婚が決まった。

新婚の宴が終わった夜、小雪は酔った勢いで私の耳元で言った。「愛情以外なら、何でもあげられる。」

その言葉通り、彼女はこれまで何もかも与えてくれた。

電話の着信音が思考を遮った。小雪のスマホ画面には「あまちゃん」と表示されていた。

「お母さん、会社で用事ができたので先に失礼します。また来ますね。」

小雪はそう言い残し、母に笑顔で別れを告げて去っていった。母は私に「小雪は忙しいのに、無理させなくていいのよ。あなたももっと彼女を思いやりなさい」と言い聞かせた。

私は苦しくなり、うなずいた。目が急に熱くなり、母を驚かせた。

「男のくせに、どうして……」

再び小雪に会ったのは、病院の12階で検査結果の説明書を会計窓口で受け取るときだった。

人混みの中、寄り添うカップルが一組、場違いなほど仲睦まじかった。周囲の人は皆、目を合わせないように静かに距離を取り、声を潜めていた。

天宮の足にギプスが巻かれているのを見て、すべてを悟った。

さっき、小雪があんなに急いでいたのは、天宮がもともと足を痛めていたからだったのか。病室を出て「会社へ行く」と言っていた、あの短いあいだに何かが起きたわけではない――ただ彼を気遣っていただけなのだ。

両足が鉛のように重く、もう一歩も動けなかった。

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