冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき / 第1話:形だけの妻の裏切り
冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき

冬の港に影が落ちて、春の光が射すとき

著者: 吉川 るい


第1話:形だけの妻の裏切り

形だけの結婚をして二年。まさか小雪があんな突飛なことをするとは、夢にも思わなかった。神奈川の丘の上のベッドタウンにあるマンションはいつも通り静かで、窓の外からは横浜方面へ向かう電車の音が遠く霞んで聞こえていたというのに。

私たちのベッドに、見知らぬ男が寝ていた。見慣れたシーツの皺と、聞き慣れない寝息。その異物感が胸の奥をすっと冷やし、固まっていくように広がっていった。鋭い痛みが身体の奥を駆け巡った。

一瞬で手足が氷のように冷たくなった。……息が詰まる。耳がぼうっとして、呼吸すら苦しくなった。もう少しで息ができなくなるところだった。視界がぐらりと揺れる。床のフローリングが軋む音だけが、やけに鮮明に響いた。

物音で小雪が目を覚ました。彼女は少し呆然とした様子で私を見つめ、まだ少しかすれた声で言った。いつもより低く、微妙に乾いた声だった。

「……ホテル、どこも満室でさ」

私と小雪は幼なじみだ。横浜に近いこの街の同じ坂道を登って学校に通い、駅前の商店街で同じようにアイスを分け合い、季節の変わり目を何度も一緒に越えてきた。

二年前、彼女は私の手を引いて両親に会いに行った。あの日のことは今でもはっきり覚えている。小雪の母が育てていたクチナシの花が蕾をつけていて、リビング中が爽やかで優しい香りに包まれていた。丘の上の家の窓からは冬の港のほうへ風が抜け、白いカーテンがふわりと揺れた。

「私たち、結婚します。」

小雪の母は、口元がほころびっぱなしだった。私は彼女の目の前で育った子どもだったから。あの笑顔の奥に、長年の安心と期待が透けて見えた。

小雪の母と私の母は、何十年も親友同士で、名前も対になって付けられた。家族ぐるみの付き合いは自然で、いつだって「ふた家族で一つの冬」を越えてきたような感覚があった。

「冬の港に、雪が降る」――。その漢字の並びは、どこか運命めいて、でも指先が痛むほど冷たい組み合わせだった。

私は漣見湊、彼女は氷室小雪。港の“湊”と雪の“小雪”。呼ばれるたびに、胸の奥に潮騒が響き、時折、粉雪が舞い落ちるような感覚がした。……でも、ただそれだけだと自分に言い聞かせる瞬間もあった。

「やっぱりあなただけが小雪の心を落ち着かせられるのね、湊。」

私にできるのだろうか?私にそんな資格があるのか?あのときは頷くことしかできず、心の中の不安を言葉にする術を持たなかった。

幼なじみで、誰もがうらやむカップル――そう思われていた。写真に映る笑顔は、いつだって周りの期待に応えるためのものだった。

だが、彼女は私を愛していなかった。

……

深く息を吐き、目に映るのは床に散らばった衣服と、明るく美しい、そして何事もなかったかのような小雪の顔。光の加減で彼女の肌はいつもより白く見え、その冷ややかさがいっそう際立っていた。

彼女の隣に寝ていた男も目を覚まし、小雪は彼を優しく宥めた。唇には微笑み、目には三月の春風のような温もり――なのに私の心は真冬の寒さに凍りついていた。私には決して向けられなかった目の柔らかさが、目の前で当たり前みたいに存在していた。

空気に残る甘い気配に、思わず吐き気がこみ上げてきた。私は背を向けて、私たちの家を出た。玄関のドアが閉まる音はやけに軽く、なのに心には重く沈んだ。

小雪は追いかけてこなかった。私は家の近くのカフェテラス「ロンド」に入り、気がつけば一時間も座っていた。駅前の小さなロータリーから少し入った、テラス席のある店だ。丘からの風が通り、コーヒーの香りがやわらかく漂っていた。

店員が声をかけてきた。「お客様、コーヒーが冷めていますが、お下げしてもよろしいですか?」

だが、私の心はコーヒーよりも冷たかった。カップの縁に触れる指先は、どんな熱も受け入れない氷のようだった。

スマホが震えた。ぼんやりとした視界の中、小雪からのLINEが届いていた。

「いつ帰ってくるの?彼はもう帰ったよ。」

私は初めて、小雪のメッセージにすぐ返信しなかった。指が動かなかった。言葉を紡げば、溶けてしまうものがある気がして怖かった。

夕暮れが迫り、カフェで一人、足が痺れるほど座り続けた。駅前の照明が一つずつ灯り、通りの音が夜の色に変わった。

家に戻ると、小雪はソファでドラマを見ていた。灯りに照らされた彼女の横顔は、息をのむほど美しかった。美しさに心を刺されることがあるのだと、初めて理解した。

「小雪、離婚しよう。」私は言った。

小雪の長く白い指が一瞬止まった。

「この回が終わってからでいい?」

私はいつものように、彼女の眉や目元を貪るように見つめた。だが初めて、ひどく疲れを感じた。まぶたの裏に重たい砂袋が下がっているみたいだった。

彼女が私を愛していないことは、分かっていた。

賭けに出た以上、何も得られずに帰るわけにはいかない。気持ちを張り続けることしか、私にはできなかった。

二年間の形だけの結婚に、私は誠実さを賭けてきた。けれど今日、ようやく本当に手ぶらで敗れたと悟った。テーブルの木目みたいに細い亀裂が、心に走っていた。

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