第1話:お年玉と「一生好き」宣言
子どもの頃、隣のお姉さんからお年玉をもらうために、僕は『大きくなったら君と結婚する』と言った。あの頃の僕は、言葉の重みなんて知らない見栄っ張りの子どもだったくせに、口だけは一丁前だったのだ。今思えば、あれは自分でも笑ってしまうくらい真正面からの“お世辞”だった。けれど、その一言が、長い時間を巻き込みながら、妙な縁の糸をつないでいた。まさか東京で社会人になってから、こんな形で回収されるなんて、当時の僕は知る由もない。
それから何年も経ち、再会したとき、彼女は僕のボロアパート『メゾン荒川』のリビングに座り、頬を赤らめて微笑みながら言った。壁紙は少し色褪せ、都電荒川線の音が遠くでかすかに響くような、昭和感の残る部屋の空気の中で、彼女の仕草だけが都会的だった。
「ご紹介します。私は、子どもの頃あなたと一生を誓い合った婚約者です」彼女の声は落ち着いているのに、言葉の中身はあまりにも大胆で、僕の心臓は跳ね上がった。耳の奥が熱くなり、頭が真っ白になって、思わずソファの縁をつかんでしまった。
新入社員として高峰ホールディングスに入ったばかりの僕は、社内LINEグループで美人の女社長が気まぐれに『ゲリラボーナス』を開催しているのを目撃した。タイムラインに突然、先着十名限定のPayPayリンク(コンビニコーヒー代とかお菓子代レベルのデジタルお年玉)が落ちてくるのだ。社員たちは仕事の手を一瞬だけ止めて、早押しゲームみたいに一斉にタップする。そんな会社、普通ないだろと思いつつ、ギフトをもらわずにいられるわけがない。しかも本社は大手町のガラス張りのフロアで、華やかなのに合理的な空気が漂う場所だから、こういうちょっとした社長の奇行も『うちの会社っぽいノリ』として受け入れられていた。
僕『美人社長、ゲリラボーナスありがとうございます! 一生あなたが好きです!』と社内チャットに打ち込んだ。勢い余って、敬語と告白のハイブリッドである。自分でも分かっている、これは完全にPayPay欲しさの犬っぷりだ。
ギフトをゲットした後も、しっかりお礼を忘れない。こういうところで手を抜くと、運気が逃げていく気がしてならないのだ。僕は画面の前で何度も『ありがとうございます』を重ね、さらにもう一度頭を下げるつもりでスマホを握り直した。
オフィスの同僚たちは驚いた目で僕を見ていたが、僕はにっこりと笑い返した。周りの視線は冷たいわけじゃない。ただ、想定外のやり方を目撃しているときの、あの何とも言えない沈黙だ。
物心ついたときにはもうスマホを握っていて、ガラケー時代なんて歴史の教科書の中の話、という世代の僕は、幼い頃から筋金入りの『コミュ力お化け』だった。親戚の集まりでは大人のテーブルにちゃっかり混ざって、おじさんおばさんをおだてては小遣いをせしめ、近所の商店街ではどこの店主とも世間話ができる子どもだった。そんなふうに人と話すのがただただ楽しくて、その『技術』は、なぜかずっと磨かれ続けている。
どこへ行っても、その社交力の高さは変わらない。初対面の相手でも、一分後には笑わせる。二分後には何かをさりげなく褒めてしまう。三分後には図々しくないギリギリのラインで相手の懐に入り込んでいる。これが僕の唯一の取り柄であり、武器でもある。
オフィス中の皆が親指を立ててくれて、僕は九十度のお辞儀で感謝した。リーダーまで苦笑いしながら親指を立てるので、思わずさらに九十度重ねてしまう。礼の角度に人間性は宿る。たぶん。
ギフトをもらって間もなく、女社長が個別に僕をLINEの友達に追加した。画面に現れた『高峰小雪』の文字に、僕の背筋が伸びた。社長直々の友だち追加なんて、心臓に悪い。
気まずさを避けるため、僕から先に挨拶スタンプを送ったが、彼女からの返事はなかった。無難な『よろしくお願いいたします』を添え、犬のスタンプで柔らかくしてみたけれど、既読の灰色が静かに佇んでいるだけだった。
『相手が入力中』と表示されているのに、なかなかメッセージが来ない。画面の上で点がぷるぷる震えては消える。期待しては肩透かし、を繰り返し、僕の心もぷるぷる震えた。
もしかして、さっき送ったギフトを返してほしいのか? 早まって受け取ってしまったのが気に障った? あれこれ考えているうちに、まぶたが重くなるほど不安が膨らんだ。
考えてみれば、僕はまだ入社したばかりで、何の実績もない。ギフトをもらう資格、僕にはないのかもしれない。罪悪感が首筋を伝って、背中までひやりとした。
自分からギフトを送り返した。すると彼女から『……』が六つ返ってきた。無言の圧、あるいはため息。いずれにしても、僕の指先は凍りついた。
それでも彼女はギフトを受け取らない。受け取りボタンのグレーが頑固に居座る。僕の胸の奥で、小さな焦燥が床をひっかいた。
彼女がなかなかギフトを受け取らないのを見て、僕の心は血の涙を流した。たかが数千円、されど数千円。貯金の数字を大切に抱えて生きてきた僕にとって、それは侮れない重みがある。
僕『社長、ギフトのためじゃないなら、返してもらえませんか?』言葉の選び方には細心の注意を払った。恥ずかしさを押し込み、あくまで丁寧に、おずおずと。
社長『受け取らなかったら勝手にお金戻るから、そのまま放っておきなさい』とだけ返ってきた。淡々としていて、まさに氷の刃のような正しさ。ルールはルール、という感じだ。
社長の言葉はどれも冷たかった。いや、冷たいというより、余計な感情が混じっていない。仕事の人だ、と思った。僕みたいな勢いだけの犬とは違う。
僕『24時間は長すぎます。やっぱり自分の財布に入っていた方が安心です』ここは食い下がる。財布の中身への執着は、僕の生存本能に近い。
社長『……』沈黙の中に、わずかな息が混じる。画面の向こうの彼女が、ほんの少しだけ考えている気配がした。
押し切られて、社長はギフトを返してくれた。通知が鳴った瞬間、胸のつかえがスッと落ちる。指先まで血が戻っていくのが分かる。










