あの日の未練が導く、二度目の約束 / 第1話:死の淵で掴んだ二度目の朝
あの日の未練が導く、二度目の約束

あの日の未練が導く、二度目の約束

著者: 横山 すみれ


第1話:死の淵で掴んだ二度目の朝

あの日の朝は、いつも通り静かに始まった。最初の一筋の陽光が障子越しに差し込んだとき、久世玲人は大湖北岸の戦場にある陣屋で、そっと瞳を閉じていた。霜気を含んだ早朝の空気は澄み渡り、肺に刺さるような冷たさが、かえって心地よい。玲人は薄く息を吐き、静けさの底に身を沈めるように、その光を見送った。

この生涯で重ねてきた出来事は、次々と浮かんでは消えていった。未練を抱えつつこの世を去ろうとする玲人の目の前で、ありとあらゆる情景が流れ、やがて闇に溶けていく。夢を見ているようにぼんやりとしながらも、これが覚醒へと続くのか、それとも永遠という新たな夢へ沈む入口なのか、彼には分からなかった。ただ、指先から温もりが少しずつ抜けていくのを、静かに受け止めていた。

だが、この命の最後の瞬間に、玲人は「筆頭家老」としての数々の責任や執着を、ようやく手放すことができた。――あの日、絶体絶命の戦場で、すべてが終わると悟ったとき、玲人は心の底から願ったのだ。どうか、若き日の自分に、もう一度だけやり直す力を。祈りにも似たその想いが、時を越えて、あるいは別の世界から、若き自分をこの場所へ呼び戻したのだと、玲人は感じていた。あれは過去に戻ったのだ、と。自分が果たせなかった御屋形様の遺志と重い託しを、若き日の自分が引き継ぎ、十万の覇王軍を前にしても退かず、乱世を制し家を守る――その大業を成し遂げられると信じられたからこそ、残されたわずかな日々を悔いなく穏やかに過ごし、この世を去ることができたのだ。

しかし、玲人は「筆頭家老」としての期待も未練も断ち切ったはずだと、もう一人の自分に言い聞かせていた。だが本当に、命を賭して守ってきたこの世を、何の未練もなく立ち去れる者などいるのだろうか。胸の奥に置き去りにした熱は、そう簡単に冷めはしない。言い聞かせても、ふとした拍子に疼き出す。

この未練は、彼が心の奥底に十一年も秘めてきたものだった。「筆頭家老」として、命の最後の瞬間まで、変えることも断ち切ることもできなかった。十一年という歳月は、まるで鋼の鎖のように心に絡みついて離れなかった。

もし「筆頭家老」としてのすべてを手放し、自分の代わりに御屋形様の志を継ぐ信頼できる後継者を得られるなら、玲人は「久世玲人」としてのすべても捨て去って、もう一度だけ、あの御屋形様に会う機会を得たいと願っただろう。名も形も、志以外のすべてを投げ打ってでも、ただ一度、あの人の前に進み出て膝を折り、頭を垂れてみたかった。

生死を超えれば、時間は意味を失う。他人から見れば命の最後の瞬間は一瞬に過ぎないが、当事者にとってはその一瞬こそが最も長い。まばたきの間に、心は千々にめぐり、過去と未来を何度も往復する。

かつての玲人は、ただひどく疲れ果てて、目を開ける力さえなかった。やがて、若い家臣の泣き声がかすかに聞こえてきて、手を伸ばして慰めてやりたいと思ったが、身体はまったく動かなかった。その泣き声も次第に遠ざかり、全身が虚ろで、ただ暗闇の中を漂っているようだった。しばし天が回るような感覚に襲われたあと、突然その暗闇に一筋の光が差し込んだ。闇が裂け、連なる影が薄れていくのを、玲人はぼんやりと見上げていた。

そして、玲人は寝台の上で目を開けた。身体は軽やかで力強く、以前の病の苦しみも、老いの衰えも、すっかり消えている。畳に染み込んだい草の香りが鮮やかに立ち上り、それが生きている証なのだと、直感で分かった。

驚きのあまり、玲人は寝台から跳ね起きた。自分の手を見つめると、それは若々しく滑らかで、力強い。全身から若者特有の活力が湧き上がってくる。指を握って開くたびに、骨が小さく鳴った。思わず笑みがこぼれる。

彼はすぐに立ち上がり、周囲を見渡す。ここは軍営ではなく、どこか見覚えのある場所だった。部屋の中はとても簡素で、机と椅子、寝台のほかには、数着の替えの衣服、新しい羽扇、そして壁の中央に掛けられた手編みの草鞋があるだけ。木目の荒い柱や、磨り減った床板の艶――その一つ一つが、懐かしさを呼び覚ます。

そのわずかな手がかりだけで、玲人は今どこにいるのか、今の自分が何者なのかを思い出した。今や彼は「天下統一、御屋形様の家を守る」という重責を背負う筆頭家老ではなく、危機に際して北近江の江月城に赴いたばかりの一介の軍師だった。胸の奥で、懐かしい古い呼び名がそっとよみがえる。

壁に掛けられた新しい草鞋を見たとき、過去の情景が鮮やかによみがえった。冷静な玲人の目にも、思わず涙が滲む。固く編まれた藁の目に、指の腹の感触まで甦る。

それは、生涯でただ一人「御屋形様」と呼んだ人物――龍崎徳親が、山里を離れた直後に自ら編んでくれた旅用の品だった。その贈り物を渡すとき、龍崎はどこか賞賛を期待する眼差しを向けていた。あの恥ずかしげな笑みと、少し高揚した頬の色まではっきり思い出せる。

だが、あの時の自分は血気盛んで、御屋形様に冷や水を浴びせるようなことを言ってしまった。顔には感謝や喜びの色も見せず、むしろ憂いを装ってこう言ったのだ――「御屋形様には、天下に号令する大志はおありでございますか。このような手慰みに草鞋を編んでおられる場合でしょうか。草鞋を編むその御手が、天下を掴む御手と同じであってはなりませぬ」。どうして、あんなにも不躾な言葉が口をついて出てしまったのか。

軍師の前ではいつも温厚だった御屋形様も、その問いには言葉を失った。そばにいた家臣たちは眉を吊り上げたり、舌打ちをしたりしながら、軍師に不満げな声を漏らしていた。場の空気は冷えきり、誰かが小声で諫める声と、溜息が交錯していた。

今となっては、まるで前世の出来事のように思い出しながら、玲人は涙を拭い、ほろ苦い笑みを浮かべた。胸の内では、針のような悔いがちくりと刺さる。

もしこれが本当に夢なら、どうかもう目覚めたくない。たとえ目覚めなければならないとしても、その前にどうしても会いたい人がいる。声を聞き、名を呼びたい相手がいるのだ。

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